「人間というものは、殺された父親のことは忘れても、奪われた財産のほうはいつまでも忘れない。」

人間というものは、殺された父親のことは忘れても、奪われた財産のほうはいつまでも忘れない。

マキアヴェッリ君主論』(白 3-1)

http://www.iwanami.co.jp/meigen/heute.html

Aを奪われた場合と、Bを奪われた場合、どちらが忘れにくいか、という比較として考えると、たとえば、100円を奪われた場合と1万円を奪われた場合なら、1万円を奪われた場合のほうが忘れにくい、という考え方がある。これは、100円より1万円のほうが貴重であり、より貴重なものを奪われたほうが忘れにくいという考え方です。一方、、1万円を奪われるよりも100円を奪われるほうが忘れにくい、という考え方もできます。日ごろ扱っている1万円単位の増減よりも、より些細な100円単位の増減、しかもそれが奪われたという形での現象となると、その些細さにより100円のほうがより印象に残る、ということがあるかもしれません。しかしこれは、たとえ間違っていないにしても、記憶、忘れにくさということに肩入れしすぎた考えのような気もします。なによりマキャベリはそういう意味での忘れにくさを問題にしていたのではないと思います。
とにかく100円を奪われた場合と1万円を奪われた場合なら、1万円を奪われた場合のほうが忘れにくい、とすると、父親が100円であり、財産が100万円である、ということなのか、というと、そうではない、と一般的には(とりあえずは)思えます。では、なぜ奪われた財産のほうが忘れにくいのでしょうか。もしかすると、殺された父親のほうをいつまでも忘れない、というのが真実なのではないか、これが皮肉でなければ、と考えられそうな気もします。