人それぞれなのか人はみんな同じなのか

病気はしないほうがいいから病気にならないように気をつける、のは当たり前のことだ、と思います。
病気をするのは嫌だ、だから病気をしないようにしよう、病気をしないようにして病気にならなかった、病気にならなくて良かった、です。
この場合、先天的・偶然・事故、その他の理由で、病気になってしまった、病気になることが避けられない、としたらどうでしょうか。
病気になるのは誰にとっても嫌なことだけれど、自分は病気になってしまった、もしくは自分のこの病気が治ることはもう期待できない、としたら、この病気を避けること、この病気にならなくて良かったということが、自分には当てはまらなくなります。
病気状態であることが自分の現実で、それがないことやそれを避けることそれがないことを良いと思うこと、そういうことは自分に当てはまらない。自分は、病気であることが前提とした生活や幸福を考えなければならない。考えなければならないのかどうかわかりませんが、自分はずっと病気のままだ…最悪だ…と思い続けるよりは、この病気があること前提の上での幸せ、そういうことを考えなければならないでしょう。考えなければならないのかどうかはわかりませんが。
病気であること前提で考えられた幸福は、病気を避けること病気でないこと前提の幸福とはやはり違うのではないか。
そういう意味では人それぞれ幸福は異なるのか。
それとも、病気になることは誰にとっても当てはまることなのだから、そして病気でないこともまた誰によっても当てはまること(病気の人も、他の病気にはかかっていない)なのだから、誰でも、病気であることが前提であり病気がないことが前提の幸福を持っている、そういう意味では同じようなもの、ということなのか。
 
こうしたらいいよ、こうすれば幸せ感が増すよ、ということはいろいろな場面でよく言われることですが、これをしたらよいというのはどういう人にとって良いのか、どういう人にとってどう幸せなのか、が大事だと思われます。運動をすることは大事なことだけれど、運動をすると体を弱くする人もいる、しかし運動というのはある程度の苦しさやめんどくささを伴うもので、それを経験しなくては運動をする意味がない、それを経験しなければする意味がないというそのそれをまさに経験してはいけない人もいる、ということが、するとよい、ことには伴う。
 
敬虔な信仰心、努力を大切に思う気持ち、家族を愛する気持ち、お金がある方がいいという話、お金がなくてもいいという話、政治的な悪を問い詰める話、政治なんかしたい人にさせておけばいいと言いつつその結果の恩恵はだけは受ける人、それぞれその人の圧倒的な現実、痛切な気持ち、から言われることだとは思いますが、それが何の関係もないこと以上に自分にとって良くないこと、という人も多い、というよりほとんどがそう、な気もしますし、じつは人はそれほど違っていなくて、たいていの場合たいていの人には同じような助言が成立する、ような気もします。
 
という考え方をAとします。これに対し