法則に「自然の斉一性原理」を付け加えることについて3

  • y=-\frac{1}{2}gt^2+vt+p

<上の式に、自然の斉一性原理を付け加えなければ、法則として成り立たない、予測ができない。自然の斉一性原理がなければ、上の式は、未来には成り立たなくなくなるかもしれない。だから、上の式には自然の斉一性原理を付け加えなければならない。>
しかし、上の式には、「t」が含まれている。上の式は、時間についての式だ。だから、特別な条件のとき(ボールを投げる前、地面に着いてしまったとき、など)以外は、どの時間についてもまんべんなく記述されている式だ。いつでも成り立つのだから、そのうえさらに、それはいつでも成り立つ、という意味で、自然の斉一性原理を付け加える必要があるのだろうか? いつでも成り立つわけではないのなら、たとえば明日には成り立たなくなるかもしれないのなら、上の式に加えて、「ただし今日2007年5月20日まで成立する」という条件を付け加えればいいのではないか。この瞬間から成り立たなくなるかもしれないのなら、「ただし昨日2007年5月19日まで成立する」という条件を付け加えればよいのではないか。
ただ、「ただし昨日2007年5月19日まで成立する」という条件は、法則が確実に成り立つとわかっている、法則を作ったデータを意味しているわけではない。法則は、データから作られる(ものだとする)。だから、法則を作ったデータが、法則に合致するのは、100%確実である、と言うことすら正確ではなく、法則の成立条件上、合致するのでなければならない。「ただし昨日2007年5月19日まで成立する」という条件は、法則が適用される場面についての条件ということになる。今まで観測したところ、それが成り立つことが観測された、ということだ。このような条件をつければ、それでこの法則の妥当性については言い尽くされているのではないか。
法則とは、確認できたことだけを表現しているのではなく、必ずまだ確認していないことや、これから確認できることを含むものだ(ということにする、もしくは、という意味だ)。法則である以上必然的に、法則を作ったデータを超えて適用される。法則には、法則が成立した時と同じように物事は進む、法則は成立し続ける、ということが含まれている。「法則が成立し続ける」という表現は、法則適用の妥当性について表現してしまっているからおかしいかもしれない。法則適用の妥当性の問題ではなく、法則が既に妥当性を主張(含意)している。そうでないと法則ではない。そういう法則に対して、さらに法則がいつまでも成り立つことの原理を付け加えるのは変ではないか? 特に上の式には時間が含まれており、どの時刻にも成り立つことが明示されている。つまり、法則自体、自然の斉一性原理を含んでいる。自然の斉一性原理は、法則の共通部分、法則になければならないこと、だ。そのような法則に、この上さらに自然の斉一性を付け加えなければならない、とはどういうことだろうか。

斉一性原理とは、科学哲学の世界で用いられる言葉で「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という仮定[1]。推論の一種である枚挙的帰納法を成立させるために必要な前提として、18世紀スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームによって導入された概念。


自然の斉一性 - Wikipedia

ヒューム的な懐疑を避けるために斉一性原理(すでに観察したものはまだ観察していないものと似ている)を認めたとしても、どういう斉一性を想定するか(エメラルドは緑だという斉一性か、エメラルドはグルーだという斉一性か)によって、事実上あらゆる予測が斉一性原理と両立してしまう、ということを示している。 われわれは、無意識に投影可能 (projectible)な述語(緑はこちらに分類される)とそうでない述語(グルーはこちらに分類される)を分け、投影可能な述語のみを帰納に使う。しかし、投影可能性を正確に定義することも投影可能な述語だけが帰納に使えると考える根拠を示すことも非常に困難である。


グルーのパラドックス - Wikipedia

自然の斉一性は、法則に付け加えるもの、ではなくて、法則を成立させる帰納法が成り立つための前提、みたいです。だから私が言葉の意味を理解していないだけでした。