法則、帰納、自然の斉一性

用語の意味を理解していなかった、というわけなので、ここで帰納と自然の斉一性について少しまとめます。
帰納とは、「個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法のこと」で、「個別・特殊的事実の多さから結論がどのくらい確からしいものかを導くための推理」。バラバラな個別の事実があるだけなら、一般的普遍的な結論を導き出すことはできないのに、何故個別の事実から、一般的普遍的な結論を導き出すことができるのかというと、帰納法は、「「全ての物事は、他に事情がない限り、いままで通り進んでいく」という斉一性の原理に従っている」からである。これを前提としなければ、帰納法は成り立たない。一方、斉一性原理が何故成り立つのか、あるいは、仮定できるか、というと、いままではいろいろな個別的事実が「他に事情がない限り、いままで通り進んで」いったからで、これは帰納法の考え方です。つまり、帰納法と斉一性原理は、互いを支えあう循環論法になっている、ということみたいです。
上の理解が正しいかどうか、という問題もありますが、用語を追いかけるとあまり考えた気になれないですね……(考えといっても適当な遊びですが……)。用語を追いかけないで考えられるのか、というと、考えられないような気もしますが……。
当初の疑問だった、法則で予測ができることの不思議、とは、帰納も斉一性原理も微妙に関係ないような気がします。いや、関係はものすごくありますが、法則で予測ができることの不思議は、そもそもどうして帰納が成り立つのか、とか、どうして斉一性原理が成り立つのか、という疑問に近いような気がします。このように問いを変えれば、「それは世界がそういうふうになっているからで、それ以上ではない」という結論に一気に行ってしまって終わるような気がします。終わったらそれでいいわけですけど、それで疑問が解消された感じはしない。同じことを考えていても、問いによって答えの中身が変わることがあるのだろうか? 問いを見直したほうが良いのではないか?
あと、法則で予測できること、未発見データにも適用できることの不思議と関連しそうな記事があったので、また振り回されそうですが、引用します。

この推理は大別して完全帰納(perfect or complete induction)と不完全帰納(imperfect or incomplete ind.)である。前者は全体としてのあるクラス(部類)に関する一般的結論が、そのクラスに属するすべての要素をしらべあげたのを基礎にしてだされるときで、これは、すべての要素が、たやすく見いだされる場合にかぎられるから、限界ある範囲にしか使えない。後者はこれを二つに分ける。1)単純枚挙 (simple enumeration)による帰納で、通俗的帰納。あるクラスの要素中のある要素たちの特徴をとらえて、このクラスのすべての要素がこの特徴をもつという結論をだすもの。これだと範囲は制限されないが、結論は蓋然的たるにすぎず、さらに結論の正しさが証明される必要を残す。2)科学的帰納。これもクラスのいくつかの要素の特徴にもとづいて全クラスにその特徴があるという結論を出すのであるが、この場合にはその特徴が全クラスの所有であるといえるように、諸要素の間の本質的結合を発見していることを基礎とする。そこで、科学的帰納では本質的結合関係を明らかにする方法がもっとも重要となる。


http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/induction.html

帰納法は科学の世界において非常によく使われる方法論で、過去の時代には帰納法、それもここで取り上げた枚挙帰納法こそ科学である、そう言われていました。

 しかしどうも実際には科学者って呼ばれる人々は枚挙帰納法とはもう少し違う方法論でものを考えているらしい、そう言われます。それが仮説演繹と呼ばれるものです。呼び名に演繹とはついていますが、データから仮説を導きだし、観察によって確立していくという点で、これはむしろ帰納法の一種であると見なされています。

 また科学者は枚挙帰納法で仮説を見つけていると言われたことがありますが、これもどうも怪しいようです。科学者が仮説を見つける時にやっていることはしばしば演繹でもなければ帰納法でもなく、仮説発見というもののようです。


http://www5b.biglobe.ne.jp/~hilihili/science/induction.html