仮説が誤っている可能性と自然の斉一性

太陽は毎朝東の空から昇る、という法則がある。これまで太陽は毎朝東の空から昇ってきた、だからこれからも毎朝東の空から昇るだろう、という法則である。この法則は自然の斉一性を前提とした法則であり、明日の朝は太陽は東の空から昇らないかもしれない、と考えるとき、どういうことが考えられているか。たとえば、彗星が地球や太陽にぶつかり、地球や太陽の軌道が変わったため、もう太陽は東の空から昇らなくなる、という場合が考えられる。この場合、毎朝太陽が東の空から昇る、という事実の変化があるとはいえ、それはあくまで派生的な事態だと、私は、考えている。彗星の衝突があり、太陽や惑星の軌道が変わると、太陽は毎朝東の空から昇らなくなるだろう、しかし、このような事態を引き起こす物理法則の存在は、彗星が飛んで来ても来なくても、疑われていない。ここでわかるのは、事実から法則が成立したこととは逆の、法則が事態を制御しているような逆転した考え方を、自分は、自然になぞっている、ということだ。太陽が毎朝東の空から昇るという法則は自然の斉一性を前提としている、という考え方は、その通りだとはいえ、わざとらしい。太陽が毎朝東の空から昇るということが、成り立たなくなる可能性が成立する枠組み(法則)(可能性の条件)を、既に知っているからだ。太陽が毎朝東の空から昇るという法則、という考え方の時点で、相当わざとらしい。自然の斉一性を問題にするのなら、いまなら、地球上で万有引力の法則が成り立たなくなるときとか、相対性理論や量子の理論が、それを使用している現場において、成り立たなくなる場面を想定すべきだろう。だとしても、それも程度問題であって、太陽が東の空から昇る場合と、根本的に異なる想定というわけではないだろうけど。
太陽は毎朝東の空から登る、という法則は、自然の斉一性が前提とされている仮説であり、成り立たなくなるときが来るかもしれない、と考えるとき、太陽が毎朝東の空から登らなくなる、という事態の可能性が考えられている。しかし、現実には、太陽が東から昇らなくなった事実によって、その法則が反証された、という状況があったわけではなく、今後も永久に太陽は毎朝東の空から登るかもしれない。物理法則は変化しても、太陽はずっと毎朝東の空から昇り続けるかもしれない。そうではなく、太陽は毎朝東の空から昇る、という法則があくまで成り立たなくなる可能性がある中での偶然的なひとつの状況だと考えられるということが、この法則が誤る前提となるのであり、そこで初めて、自然の斉一性が必要となる状況が出てくる。となると、それが成り立たない可能性を考えることもできないほど確実だが、その可能性が想定されていないだけで、実は、自然の斉一性を必要とする法則がある、とは考えられないだろうか。自然の斉一性を必要とするかどうか、には、たとえば、帰納(仮説、物理法則)と演繹(論理法則)の違いと同じくらいわかりやすくはっきりとした違いがあるだろうか。