非合理的(と思われること)が主張される時

1+1はなんで2なの。1+1は1かもしれないじゃないですか。
というようなことがたまに主張されるが、それを認めたらどうなるのか。
それを主張する人は主張したことによってどんな利益を得るのか。
それを認めたことによって私たちはどうなるのか。
 
効かない薬、効かない療法を勧める人は、効かないのになぜ勧めるのか。
効かない薬、効かない療法を勧める人は、効くと思っている、効くと信じている、効くことを実証的に証明した、から勧める。
効かないし、効くと信じてもいないし、効くと言ったら誰かからお金をもらえる、わけでもないのに、ただ効くと主張する人はいないだろう。
そういう人がいたとしても、私にはまだわからないが、なにか特になることがあるはずだ、と思うしかない。
効くと主張し、効かない薬、効かない療法を選択する人が、選択するに至った経緯には合理性がある、あらざるを得ない。
あらざるを得ないというか、現に選択しているのだから、それに至ったことは現実で、それを否定すればそこに至ったこれまでの経緯(過去)が消えるわけではない。
 
ある主張があってそれに反対する強固な主張がある。どちらも十分理解可能で現実的です。
ある主張を、理解できない、と思うときは、単に目をふさいでいるだけ、ということになる。
理解できないことはある。理解できないからといって、消せるわけではない。

怒りの対象になった時

怒り行為は強い自己肯定感を伴った示威意志によって行われる。
そのため、自分が怒りの対象になった時、受け流す、ということが難しい。
強い意志を持った激しい攻撃にさらされたとき、心理的にはどうしても防御的、対抗的にならざるを得ない。
そのため、相手の怒りに対し、自分の怒りを対置してしまいやすい。のか?
怒りは、強い自己肯定感を伴い、力、力を持った感覚、を得やすい。
ただ、基本的には、怒ったっていいことなんか何もない。
相手の怒りに対し、何もしない、ただ流される、ということが可能だろうか。
こうなったら誰でも怒るだろう、という怒りに至った経緯を想像して、相手の怒りを対象化する……。
いや、いま問題なのは、自分が怒り対象になったときの自分のこわばりの問題だ。
だから、すべきなのは、怒り対象になったら誰でも防御的姿勢をとってしまうだろう、という自分の気持ちの対象化でした。

悪者が自分の場合

知り合い友人恋人家族などの関係を他人と持つと、その関係上、しなければならないこと、保たなければならない状態、が発生する。
それをうまくやっていくことが、関係を継続していくために必要となる。
それをうまくやっていく能力に乏しいと、関係を継続していくことは困難となる。
悪いことをする人にもそれなりの理由がある、のかもしれないが、悪いことをしていることに変わりはない。
悪いことをしているということそのものによって、悪いことをしている人は責められる。悪いことをしている人は悪い。
悪いから知り合いにも友達にも恋人にも家族にもなりたくないし一緒に仕事をしたくない。
したくない、と書くと、したい、という選択があるような気になってしまうけどそうではない。そういうはなしは次の段階。
悪いことをする人にもそれなりの理由がある、ということが意味を持つのは、悪さではなくその人そのものが問題になるときだ。
人は通常人そのものとして表れず、良いか悪いか遠いか近いか、のような形で現れる。
自分の悪さ、能力の低さ、を知っている場合、その悪さや低さに見合った関係でなければ期待に応えられないという恐怖がある。

感情をみつめる

そうした、今すぐに去ってほしい感情、どうにかして消えてほしい感情が起こったとき、
ある種のものは、考えないようにする、というやり方で、流すことができるようになった。
また、他のある種のものは、それをじっくり感じることで、私はいまこう感じている、耐え難いがこう感じてしまっている、
こう感じるのはこういう原因があるからだ、この原因によって私はこう感じる。
同じ状況になれば人間ならだれでもこう感じる、また、私に似た人ならだれでもこう感じる、もしくは
こう感じる人にであうことは少ないかもしれないが、私のように感じる人は多い、
のようなことを考えると、苦しむ自分を外から眺めているような気分になることができる。
苦しみは減らないが、ただ苦しんでいるだけの状態よりは、ましかもしれない。

さみしさ、わずらわしさ

部屋が静かになると物音に敏感になってしまう。
そういう事情もあるがそれ以上にさみしさを感じるので、シャワーを浴びに行くとき、ラジオをつけっぱなしにしておく。電気代
最近は、カントリー・ガールズのラジオをつける。

怒り

怒りは非常に強い自己正当化感の元に発生するが、
怒ってしまう人は感情の制御ができない未熟な人、という側面もある。
自分が完全に正しい側、攻撃側になってしまったことによって、防御が弱くなってしまっている部分、脇が甘くなってしまっている部分がある。

屈辱、恥、怒り、悲しみ

感情の中には、それにひたっていることができず、どうにかしたい、なんとかしたい、一刻も早く消えてほしい、というものがある。
その場合、その感情の原因となる出来事は、起こって当然のことである、むしろ起こらねばならなかった、自分が出来事を起こす側ならむしろ何とかしてその出来事を起こしたいと思ったはずだ、と思うことで解消できる。
のだろうか?
無力感と悟りは同じことの2側面なのか?