「田川建三からのお知らせ」更新

かなり長い文章が追加されています。
こんなに長い文章は「お知らせ」始まって以来なのではないか?

新約聖書のことは何も知りませんが『訳と註』は読み物としても本当に面白いと思います。
大きくて重いので電車で気軽に読むというわけにはいかないのが不便かもしれませんがまあそんなことは関係ありません。

主張が正しくない場合

主張が世間の正しさと合わない場合、正しいと思っていても世間の前では言わない場合はある。それでも、信者の前なら主張を言う。
では、自分の主張が、どんな他人にも合わない場合、どうなるか。
自分は正しいと思っているが、その主張があらゆる他人には当てはまらない、反感を買う場合、どうなるか。
世間と合わない場合なら、熱心に主張すれば、同意してくれる他人はいるかもしれない。
あらゆる他人と合わない、と思われる場合なら、主張する意義がなくなる。
あらゆる他人と合わない、すべての他人から反感を持たれる主張というのはたとえばどんな主張か。
どんな主張も原理的に他人と合わない主張というのはありえないのではないか。
たとえば、他人に見つからないなら不正を行ってもよい、という主張ならどうか。

批判の目的・反撃の目的

何のために批判するのか。
というと、もちろん相手を嫌な気分にさせるためではない。
批判と悪口・暴力は全く異なる種類のもので、同列に扱うことはできないが、似ているところが全くない、と思うにはためらいがある。
 
もしかすると、悪口、誹謗中傷に対する応答でも、暴力を振るわれた時の対応ですら、そうかもしれないが、どんな批判、どんな応答であれ、その目的は、相手を嫌な気持ちにさせるためではないのではないか。
何か批判しなければならないと思った時、いきなり悪口を言われたとき、暴力を振るわれた時、自分で自分の気持ちを誤解してしまうが、その相手の心にダメージを与えようと思っているわけではない。
他人が嫌な気持ちになる、ということが、自分をより良い気持ちにさせてくれることなどない。
 
自分にダメージを与えてくる物の力が相対的に減少すると自分が受けるダメージが減り自分の力が増す、ということはある。
そういう身の守り方しかできない時、そういう対応の仕方が必要な時、もあるかもしれない。
ただし、相手にダメージを与える、という行為は、どんな形であれ、必ず結果を伴う。
その結果は、まずほとんど自分の特になるような結果に帰結しない。
反撃した時点では一時的に自分の力の相対的回復を感じるかもしれない。
しかし、長期的には、相手に与えたダメージが、自分へのポジティブな作用を遠ざけ、ネガティブな作用を近づける、のではないか。
 
それでも、ムカッとなって思わず相手に屈辱や痛みを与えることを目的とした行動を行ってしまうことはある。
というよりほとんどの場合そういう行動へ激しくかきたてられる。
それは、自分にダメージを与えてくる物の力を相対的に減少させる、
自分にダメージを与えてきた物の価値を相対的に減らす、
その結果、自分が受けるダメージが減る、自分が受けたダメージの価値を減る、そして自分の力の回復を感じる
からなのかもしれない。
思わずやってしまうだけであって、それが自分の本心であったり本当の目的とは違う、と考えることもできる。
相手の力の減退自体は、本当にしたいことではない。
また、相手の力の減退という目的を達成した場合、それは一時的には得なように思えるが、長期的、結果的には、損をするように思われる。
 
本当にめざすべきなのは、自分の力の増大、自分の幸福感安心感平穏の増大、長期的に得な状況を作る、ことです。
これは、道徳的にいいからとか、その方がいい人になれるから、とかではなく、いやらしいほどに自分の気持ちよさに対して得になるにはどうすればよいかだけを考えた結果です。
 
批判したくなったとき、正しく反撃したくなったとき、もちろん悪口を言いたくなったり、暴力をふるいたくなったり、人を嘲弄したり屈辱を与えたくなったりしたくなったときは、それが本当に自分にとって得な結果を生むのかをよくよく考えるべきだと思われます。
 
なぜ私はこんなことを思うのか、というと、私は、反撃されたこと、嘲弄されたこと、屈辱を与えられたことについて、忘れることも多いですが、覚えていることはどんな小さなことでも、どんなに昔のことでもはっきり覚えており、日々その屈辱の気持ちを新たにして、復讐の機会をうかがっているからです。

反論の効果

本当には批判も賛成もできない。
としても、反論することは無意味ではない。
ある人の意見を批判する。まず間違いなくその批判は全く批判になっていない。
その人もその批判には全く納得しないしまともな批判になっているとは思わない。
しかし自分の意見というのはこのように理解されないということはわかる。
このように理解されないなかで自分の意見を言わなければならないということはわかる。
となると、批判する人の正しさを認めるわけでは全くないが、意見の言い方が変わってこざるをえない、ものなのではないか。

気分の話をします

いつも以上に単なる気分の話であり、どうでもいい話です、プリンよりゼリーが好きみたいな話です。
どんなものにでもそこにおもしろさや良さを見いだせればそれでいいのか
いろいろなところにおもしろさをや良さを発見できれば楽しいと思えます。
おもしろさや優れた点を発見する、感じることができるものが多ければ多いほど楽しい、ような気がします。
では、それをおもしろいと思うことこそ、それを優れていると思うことこそ、良くないことなのだ、劣ったことなのだ、と考えることができる場合はどうでしょうか。
そんなものをおもしろがっていてはだめだ、と言われて、これをおもしろがっていてはだめだと思えるか、思うことは可能でしょう。
同時に、何を言われても反論はできるし、反論はできなくても、それをおもしろいと感じてしまっていることは事実であり、それを否定することはできない、ということもあります。
それが良いかどうかは時と場合による、何をおもしろいと思っているか、それをどう批判されたか、その時々で異なる、というのが正しい答えだとは思いますが、強引に言うと、やはりおもしろさをまず感じてしまう方が優勢な気はします。
ただし、おもしろさを感じる側が、具体的でなく曖昧で内輪用語で完結している場合、かつ、おもしろさへの批判自体がものすごくおもしろい場合、は批判の方がおもしろい気がします。
批判がただの無知による揶揄であったり、具体的でなく曖昧であったりする場合は、問題外でしょう。
同じように、おもしろいと感じる場合、それを批判する場合、どちらにでも言えることですが、友人知人親や家族世間一般世界共通その他そういった他の誰がどれだけ賛成したり反対したりしようが、法律で禁止されようが、私に賛成するのは私一人であろうが、私がおもしろいと感じるのだ、私が批判したいからするのだ、なのかどうか、みたいなのもある気はします。

『できない力』

これ相当傑作だと思うんですがどうでしょうか。
ブログのタイトルとか全部これにしようと思いました。
けどすぐにこれはつまり『老人力』の劣化コピーでしかないなと思ったのでやめます。
老人力』は物忘れや老化等のネガティブ状況をポジティブにとらえようという話でしたが、できない力は、能力万能状態への全面的屈服によるゼロ状態からの絶望的な反転もまたすべてゼロに収斂されていくしかないという何の希望もない恐ろしい状態を見つめるだけの苦行のあまりの無意味さに思わず老人力的意味を読み込んでしまわざるを得ないという状況のことでありわざわざとなえる意味がない。