「真摯な要望に「茶化す」「小馬鹿にする」という形で反応する人は、私は感心しない。 2013/08/14」

 
「感心しない」ということで対抗できるほど、茶化しの力は弱くない、と実感的には思われる。
道徳の力、たとえば、立派な人間はそんなことをしない、だから私は茶化さない、と茶化された自分は強く念じ、自分に憤りを抑えることを言い聞かせる、のようなやりかた以外に考えることが難しい、ように思われる。
茶化される、小馬鹿にされる、ということに対する真剣さが、これでは足りない、と思ってしまうとしたら、あまりにも茶化されることに向き合いすぎてしまっているからだろうか。
また、茶化す側、小馬鹿にする側の、まさに茶化しや小馬鹿にすることを選択した(真面目に対応したり無視したりすることを選択しなかった選択)真剣さや切実さは確実にあり、それに対して、「感心しない」ではほとんど何もしていないに等しい。
「現実的には」、15年ほど前に茶化されたことを今でもことあるごとに思い出し、そのたびに怒りの気持ちを新たにしたり、思い出さないこと、忘れることが最大の復讐だと思ったり、こういう気持ちがあるから真剣さが生まれるというものだと思ったり、こういう気持ちがまったくないサッパリとした人生を送っている人など誰もいない、と思ったり*1、する私は、「真摯な要望に「茶化す」「小馬鹿にする」という形で反応する人は、私は感心しない」という文章を見て、すぐに、自分の味方を得たような気持ちになってしまうような人間です。