議論をいくら練っても正しさにはつながらないとすると何が議論を「正しい」ほうへと導くのか

その営業マンは、毎日何時間も投資勧誘攻撃を続けており、投資勧誘を断るあらゆる理屈を論破するエキスパートみたいになっているようだった。
その百戦錬磨の投資勧誘マンに対して、電話勧誘を受ける側は、それを断る訓練をろくに積んでいない新兵同様だから、まともに論争してしまうと、うっかり負けそうになったりするわけだ。
 
これって、職場や家庭での議論やネットでの議論にも言えて、単に知識と議論経験が豊かで論争に強い人間が議論に勝つことも多く、正しい方が議論に勝つとは限らない。
 
http://ul og.cc/a/fromdu sktildawn/17621

勝つために行う議論もあるとは思いますが、勝ちはするが正しくない議論よりも、正しい議論を目指したい、と誰もが思うのではないかと思います。私は思います。なぜなら、正しい議論のほうが、勝つだけの議論より有効だと思えるからです。上では、勝つだけの議論は、その場では相手を屈服させることができるが、屈服させるだけで、この先の有用な議論へとはつながらず、いつまでも反論の機会を伺うような敵を作っているだけだからです。思わず言い返したり怒ったりしてその場では気が済むかもしれませんがその後延々と後悔しつづける、なんてことがよくありますが、そのときに似た後味の悪さです。こんな結果はあまり望ましいものではありません。
議論を重ね、それなりに練られて強くなった議論が、いくら強くなっても、弱い新兵に一瞬勝つだけで、まったく正しくなく、新兵のほうがずっと正しい、というのでは悲しすぎます。回数を重ね練習をつんでも、方向が良くなければ駄目、正しくない、ということでしょうか。確かに強くはなるが、強くなったぶん余計に自身の間違いに気付かない。ということもありそうな気がします。
 
しかし、練られた議論は確かに強い。強いのに正しくない、とはどういうことでしょうか。
「投資勧誘を断るあらゆる理屈を論破する」
「単に知識と議論経験が豊かで論争に強い」
動機が大切、ということでしょうか。