「痛み」が「規準」・「他人の心」の問題ではなく「自分の心」の問題とはどういうことか

雨が降っているとしか記述できない状況は、雨が降っていることの規準である。
同様に、怒っているとしかみなせない状況や、痛がっているとしかみなせない状況は、「怒り」や「痛み」の規準である。
しかし、怒りや痛みは、怒っていないのに怒った演技をしたり、痛いのに痛くないふりをすることも含んでいる。仮に、「規準」という概念が、外的な現れのことを意味するのだとしたら、怒りや痛みは規準概念だけで説明できないものを含んでいることになる。
言語とは公共的なものであり、言語を使用する以上、扱われる概念は、公共的=外的な現れ、手に入れられる証拠のみを規準とするものになる。「誰もわからないかもしれないし、他人に示すことのできる証拠もないが、雨は降っているのであり、彼は怒っているのであり、彼女は痛がっている」、などということに意味はない。
誰にもわからないし確かめることのできない降雨などというものは、つまり、雨は降っていない、ということでしかない。それでもなお雨は降っているのだと主張するのなら、雨が降っていると言える根拠を示すしかない。雨が降っていないことについても同様である。どう見ても雨が降っているとしか見えない状況で、いや、これは屋根から誰かが水をまいているだけかもしれないし、宇宙から飛来した隕石に含まれていた水がたまたま落ちてきただけかもしれないから、雨が降っているとは限らない、と主張するのなら、わざわざそう主張する根拠の提示が求められる。もしくは、それでもこうした状況が「雨が降っているように見える」としか記述できないことに規準の確かさが示されていると言える。
「彼が怒っている」「彼女が痛がっている」も同様である。いったいどういうときに彼が怒っており、彼女が痛がっているとみなすのか。誰にも見抜くことはできないけれど、もしかしたら彼は怒っていないし、彼女は痛いふりをしているかもしれない、と主張するのなら、逆に、そう主張するほうに根拠の提示が求められる。だから、あえて語弊を招くことを言えば、完璧にだますことができたのなら、だまされるほうが正しいのである。(『入門』)それがふりであることを証明するのも、外的な現われを証拠にする以外にはありえないからだ。
しかしここで問題なのは、「私が怒っている」「私が痛みを感じている」場合である。怒りや痛みにおいては外的な現われだけが問題なのであり、心理的内面や実感など関係ない、とはいえ、「私が怒っている」「私が痛みを感じている」場合は明らかに外的な現われ以上のことが問題となっており、規準概念だけでは解決できない問題がある。怒っているふり、痛みの演技についても、外的な現われとしての他人の問題ではなく、自分の心の問題として考えなければならない部分が出てくる。