行動主義・規準・他人の心自分の心

痛み、とは、痛いという私的な実感でもなければ、痛いという心理状態のことでもなく、痛そうな振る舞いとともにあるもののことである、とはいえ、それは痛そうな行動を痛みとみなす行動主義ではない。痛みとは(痛み概念の周辺には)、痛そうな振る舞い、痛みを我慢する顔、痛くないふり、痛くないけど痛そうに振る舞う演技、そういうものを含んだ総合的な状況判断、判断以前の一致、も含んでいる。そのようなことを、痛みの「規準」と言う。グレーリングさんの『ウ』ではだいたいこのように言われている。

永井さんの『入門』では違う。
雨が降っている「規準」とは、空から降ってくる水滴であったり、道を歩いていてパラパラいう音とともに身体が濡れることであったり、そういうもののことを言う。空から降ってくる水滴で身体が濡れるのを見てもなお、いやこれは雨ではないかもしれない、雲の上から誰かが水をまいているのかもしれないから、雨ではないかもしれない、と言うのなら、雨ではないことの根拠の提示が求められる。しかし「痛み」はそうはいかない。雨が雨であることの「規準」は、外的な現れとして全面的に開示されているが、「痛み」については、痛いふりをしているのかもしれない、ということが含まれる。痛みは。外的な現れであると同時に、そうでないことが含まれる。

永井さんが「規準」を外的な現われとしているのに対し、グレーリングさんは外的なもの以上のことを考慮に入れている。規準概念解釈のこのような違いが出てくるのは、グレーリンクさんが中期と後期を分けずに論じ、永井さんが『入門』のなかで中期から後期への以降の経緯を比較的詳しく論じているという違いがあるからだろう。だからこの違いにはそれほどこだわらなくてもよいかもしれない。

『入門』では規準についてさらに以下のような論点もある。雨であると判断すべき状況でも、それでも「雨でないかもしれない」と言うときには懐疑の余地を残す根拠の提示が求められる、のと同じように、人が顔を真っ赤にして怒鳴っているなら、それは怒っているとみなすべき状況である。それでもなお「怒っていないかもしれない」と言うのなら、懐疑の余地を残す根拠の提示が求められる。怒っていないかもしれないとしても、それでもなおこの現象が「怒っているように見える」「雨のように見える」としか言いようのない現象であるということを考えればよい。それが「規準」である。しかし、雨とは異なり、怒りや痛みについてはそう簡単に言えない。「ここには、規準論だけでは解決できない問題が残されているが、それはもはや「他人の心」の問題ではなく、むしろ「自分の心」の問題でであろう」(永井『入門』P123-124)
ここで言われている「自分の心」の問題とはどのような問題だろうか。