規準と兆候5

まずこれを読みます。

次にこれを読みます。

上に続く議論はこうです。
「しかしここで次のような場合を考えてみよう」
私はテレビを見た。と思ったのだが、それはどう見てもテレビに見えるだけでテレビではなくタンスだった。ブラウン管に見える部分を押すと扉が開き、中に急須と大福があった。「この場合、「その外見が「テレビ」の外見であって、別のものの外見ではない」ということは、「テレビ」の「定義」に基づくのであろうか。もし「テレビ」に「定義」があるとしても、それは「外見」を規定するものではなく、むしろ「機能」を規定するものであろう」。どう見てもタンスに見えるけれど大福をつまんだら側面に「美女学」の映像が映し出され、急須を叩いたら「よろしく!センパイ」が写るとしたら、それをテレビと呼ぶことに何のためらいもないであろう。「それは現在のテレビとは外見が違うので、「定義により」テレビではない、と言う人がいるとは思えないのである」
(この議論に続き、テレビだけではなく雨の場合も同じことが言えるとして、 http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20110102/p1 の議論になる。)



難しい、と感じる。全然違うのではないか、という気にもなる。しかし同時に、どことなく落ち着かない、なんとなくすれ違っている、何かまったく別のことが語られているような、そんな気にさせられる。私は永井さんの『入門』を読み過ぎただけなのではないだろうか。とりあえず機械的に反論を書いてみる。

たとえば、直方体の一面に動画が映し出されていることはテレビであることの兆候であり、直方体に電源ボタンやチャンネル切り替えスイッチがあることもテレビであることの兆候である。しかし、「テレビである」としか記述できないような視覚印象や、「テレビを見る」としか描写できないような身体感覚などは、テレビであることの兆候ではなく規準である。
いや、そうではない、後者のような視覚や感覚といえども、画面を開けたら急須や大福が出てくるかもしれないし、実はチューナーがなく録画された映像を流すだけで本当はテレビじゃないかもしれない。だから、結局はテレビであることの兆候にすぎない、と言いたくなる人は、この状況が「テレビである」「テレビを見る」という表現でしか描写できない理由を捉え損ねているのである。欺かれていようといまいと、つまり真であろうと偽であろうと、その状況は「テレビを見ている」状況、つまり定義によってそう確信すべき状況なのである。それは文法によって保証かつ要請された当為であり、そういう状況に直面してなお「テレビかもしれない(がひょっとするとテレビでないかもしれない)」などと言う人には、むしろ逆に、懐疑の余地を残す根拠の提示こそが求められるのである。

この文はおかしい。
確かに、雨における規準としての感覚印象・視覚印象と、テレビにおける規準としての「機能」は異なる。しかしどうも腑に落ちない。腑に落ちない、ではなく、見当違いの方向を向いている、ように思える、のですが……。