規準と兆候4

ここで主張されているのは、たとえ感覚印象がわれわれを欺くことがあるとしても、欺かれて信じたのがまさに「雨が降っている」ということであって別のことではない、という事実は「定義(あるいは規約)に基づく」のだという考えである。しかし以下に論ずるように、この考えは成り立たないと思う。
この考えを支えているのは、次のような議論であろう。、実際には、裏の畑に水をまいているおじさんが、間違えて散水用のホースでわが家の玄関先に水を降らせてしまったのだが、しかし、そのとき私が「欺かれた」のは、そのときの感覚印象が、正常な状況においてならば「雨が降っている」と言うべきときのそれであることを知っていたからこそである。つまり、そのとき、他のことではなく「雨が降っている」と信じたのは、まさに、「雨が降っている」という文をどのような場合に使うべきかを知っていたから、すなわち、その文を「理解して」いたからである。このように、その感覚印象のもとでの「雨が降っている」という判断は、「言語の理解」に基づいているのであり、そしてまた、「この言語も規約に基づいている」以上、その感覚印象と「雨が降っている」という文との関係は、言語規則・文法・意味に基づく関係なのだ、というような議論であろう。

丹d治信d春『言d語と認d識のダdイナミズム』PP133-134