素朴な「像」の理論批判

ウィトゲンシュタインの「はしご」』つづき。
意味の心象説(言葉の意味とは心に浮かぶ像(のようなもの)だ)批判は、青色本など(後期以降)でよく出てくるので目にしやすいですが、それ以前に、「論考」以前の段階での意味に関する問題がある。
「富士山は白い」の意味について考えると

  • 「富士山」→富士山という対象
  • 「は白い」→白さという対象
  • 「富士山は白い」→富士山は白いという事実
  • 「富士山は白い」は富士山が白いとき真、そうでないときは偽
  • 「言語表現はそれに対応する事実と対象との経験によって理解される」P46

こうした考え方は、「論考」以前の段階で批判的に検討されている。

  • 偽の命題に関する問題
    • 「富士山は白い」が偽なら、この命題は何を意味しているのか? このときこの命題に対応する事実は存在しない。経験できないのならこの命題は意味を持たないのか? →命題はその真偽に先立って理解できる。
  • 否定命題の問題
    • 「富士山は白くない」は何を意味するのか。富士山は白くない事実がすべて成り立っているわけではない。そのすべてが経験できないのならこの命題は意味を持たないのか?
  • 複合命題の問題
    • 「富士山は白いかつ比叡山は緑である」に対応する事実があるとすると、「富士山は白いまたは比叡山は緑である」に対応する事実はあるのか。それはどんな事実か。それは「富士山は白いかつ比叡山は緑である」とどのように異なる事実なのか。うまく説明できない。
  • 虚構の名の問題
    • 虚構の名たとえばペガサスは、その対象を経験することができない。では無意味なのか?

ラッセルに対する批判
→このあたりは『「論考」を読む』にも詳しく書かれていたような記憶がある。
これらを解決して『論考』は書かれた。