「独我論は貫徹されると純粋な実在論に帰着する」

『入門』P76

  • 『論z考』における2種類の語りえぬもの
    1. 世界の形式そのものであるがゆえに語りえない「先験的」なもの=論理
      • 論理を語ろうとする言語は、論理や形式があるからこそ成り立つもの
    2. 世界の外にあるがゆえに語りえない「超越論的」なもの=倫理
      • 事実判断から価値判断は導き出せない。事実をいくら詳しく見ても、だからこれは良い、とか、だからこれは悪いことだ、と言い切ることのできる根拠は出てこない。それは「世界の外」にしかない。
  • 倫理は世界の外にあるのだから「超越論的」なのではなく「超越的」なのではないか?
  • 倫理と論理の違いは?
    • 世界の限界が変わって世界が総体として別の世界になっても、世界の論理形式は変わらない。
    • 世界の限界が変わると、世界は総体として実質(意味・意義・価値)を変えるのであって、内容(事実)や形式を変えるのではない。
    • 「だから、そのような仕方で限界づけられた世界は「私の世界」でなければならず、その世界の言語は「私の言語」でなければならない」
      • ???
      • 倫理・価値・意義=私 ?
  • 人生問題
    • 事実の認識、事実についての問いにすべて答えが与えられても、人生問題は解決しない。
    • 事実に関する認識が増えても、世界の限界は変わらない。人生の問題(意味・意義・価値)は、限界が変わることによってのみ解決される。
    • 人生問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見出される。(6.521)
      • 世界の限界が変わることによって問題がなくなる
  • 独我論
    • 5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する
    • 世界の限界に立つ私
    • 5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
      • <素朴な流れで>
        • 私のいない世界は考えられない
        • 「私に見られた世界
        • 私に見られた世界の中に<見る私>は存在しない
        • (私に属すると思われる)肉体的・精神的対象は、対象である限り、見る私によって見られる対象でしかない・そこに見る私は含まれない
    • 5.64 独我論の自我は延長を持たない一点に収縮し、残るのはそれと対置していた実在だけとなる
    • 独我論は貫徹されると純粋な実在論に帰着する」P81
  • 独我論の自我
    • この自我=主体は、デzカルト・カzントの超越論的=先験的主体ではない
    • デzカルト・カzント・フッzサール超越論的哲学
      • 素材としての世界に、主体=自我が、形式(意味)を付与する
    • 『論z考』の独我論
      • 形式に満たされた世界に、私が、限界をなすことによって、実質=存在を付与する
        • 私は、意味を付与する主体ではなく、世界この世界として存在させている世界の実質そのもの
    • 他者とは、私とは別の意味付与を行う別の主体ではなく、この世界とは別の限界をもった別の世界のこと