2008-04-05 「独我論は貫徹されると純粋な実在論に帰着する」 T 『入門』P76 『論z考』における2種類の語りえぬもの 世界の形式そのものであるがゆえに語りえない「先験的」なもの=論理 論理を語ろうとする言語は、論理や形式があるからこそ成り立つもの 世界の外にあるがゆえに語りえない「超越論的」なもの=倫理 事実判断から価値判断は導き出せない。事実をいくら詳しく見ても、だからこれは良い、とか、だからこれは悪いことだ、と言い切ることのできる根拠は出てこない。それは「世界の外」にしかない。 倫理は世界の外にあるのだから「超越論的」なのではなく「超越的」なのではないか? 世界の外にあるといっても世界から離れてあるのではなく「世界の限界」としてある 『論z考』6.43 http://www.geocities.jp/red_mad_hatter/Tractatus/jp/bodyX.html#643 倫理 ー 善き意志・悪しき意志は世界の事実を変えるのではなく世界の限界を変える 限界が変わることによって、世界は総体として別の世界になる。 限界の異なる世界は別の世界である。 「幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である」 倫理は「言ってみれば、それが世界を形づくるという仕方で、世界そのものとしてある」(P78) 倫理と論理の違いは? 世界の限界が変わって世界が総体として別の世界になっても、世界の論理形式は変わらない。 世界の限界が変わると、世界は総体として実質(意味・意義・価値)を変えるのであって、内容(事実)や形式を変えるのではない。 「だから、そのような仕方で限界づけられた世界は「私の世界」でなければならず、その世界の言語は「私の言語」でなければならない」 ??? 倫理・価値・意義=私 ? 人生問題 事実の認識、事実についての問いにすべて答えが与えられても、人生問題は解決しない。 事実に関する認識が増えても、世界の限界は変わらない。人生の問題(意味・意義・価値)は、限界が変わることによってのみ解決される。 人生問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見出される。(6.521) 世界の限界が変わることによって問題がなくなる 独我論 5.6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する 世界の限界に立つ私 5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。 <素朴な流れで> 私のいない世界は考えられない 「私に見られた世界」 私に見られた世界の中に<見る私>は存在しない (私に属すると思われる)肉体的・精神的対象は、対象である限り、見る私によって見られる対象でしかない・そこに見る私は含まれない 5.64 独我論の自我は延長を持たない一点に収縮し、残るのはそれと対置していた実在だけとなる 「独我論は貫徹されると純粋な実在論に帰着する」P81 独我論の自我 この自我=主体は、デzカルト・カzントの超越論的=先験的主体ではない デzカルト・カzント・フッzサール超越論的哲学 素材としての世界に、主体=自我が、形式(意味)を付与する 『論z考』の独我論 形式に満たされた世界に、私が、限界をなすことによって、実質=存在を付与する 私は、意味を付与する主体ではなく、世界をこの世界として存在させている世界の実質そのもの 他者とは、私とは別の意味付与を行う別の主体ではなく、この世界とは別の限界をもった別の世界のこと