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序文

V01 学としての確実な道の発見

  • 確実かどうかはその成果を調べればわかる

V02 論理学の実例

  • 論理学は確実な道を歩んできた。
    • アリストテレスの頃から後戻りしていない
    • 現代に至るまで一歩も進歩していない
    • どのように見ても完成され閉じてしまったかのように見える

V03 予備学としての論理学の限界

  • 論理学の成功はこの学問の境界が明確に定められていたことによる
  • 知性は、論理学においては、知性自らと形式だけを問題とする
  • 理性は、理性自身だけでなく、客体も考察しなければならない
  • 知識の判断には論理学が前提とされるが知識を得るための手段は<学>でなければならない

V04 理性の二つの認識

  • 理性は<学>に含まれており、<学>にはアプリオリに認識できるものが存在しなければならない
  • 理性による認識は二つの方法で対象と関連付けられる
    • 対象とその概念を規定するだけにとどまる=理性の理論的な認識
      • 対象は外部から与えられなければならない
    • 対象をほんとうに作り出す=理性の実践的な認識
  • 理性はアプリオリに客体を規定する
  • 他の源泉から生まれた認識と混同してはならない

V05 純粋な学としての数学と物理学

  • 理性的な認識のうちで客体をアプリオリに規定する必要のある学として数学と物理学がある
  • 数学は全体が純粋
  • 物理学は一部が純粋
    • 他の一部は理性の認識源泉とは異なる源泉によって規定される

V06 数学の革命

  • ギリシア
  • 図形の概念を追い求めて図形の性質を学び取ろうとしてはならない
  • 概念に従ってその図形のうちでアプリオリに思考したものから必然的に導かれるものの他には何も付け加えてはならない

V07 自然科学における革命

  • ベーコンの提案

V08 自然科学と思考革命

  • 理性は自らの計画に従ってもたらしたものしか認識しない
  • 計画的な実験・観察・必然的な法則
  • 生徒ではなく裁判官として自然に向かう
    • 原理と実験を手にして
  • 理性自ら知ることができないために自然から学ばなければならないことは、自ら自然に投げ入れたものにしたがって、自然のうちに求められなければならない。この思考方法によって初めて、自然科学は確実な道を歩み始めた。

V08n 実験という方法について

とくになし

V09 形而上学という闘技場

  • 形而上学は経験から超越して概念だけによって認識する、全く孤立した至高による理性認識
    • 概念を直観に適用して認識する数学と異なる
  • 理性は形而上学においては生徒であろうとする

形而上学はうまく行っていない

V10 確実な道への疑念

  • 形而上学がの確実な道が発見できなかった理由はどこにあるのか?
  • 自然は、なぜ、理性に、確実な道を探し求めることを使命として与えて、苦しめることにしたのか?
  • 我々が最も知りたい問題について、理性が我々を見捨て、まやかしを示して誘い、欺くのだとしたら、我々は理性を信用できない

V11 コペルニクス的な転回

  • そこで
  • 形而上学も数学や物理学に学ぶべき
    • 数学や物理学は確実な道を歩んでいる
      • 突然起こった革命による
        • この思考方法の変革を詳細に追跡してみる
    • 理性による認識という点で形而上学は数学物理学と共通している
      • だから模倣する
  • 人間のすべての認識は対象にしたがって規定されるべき
  • だから、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従って規定されなければならないと想定する
  • 我々は対象についての認識を必要としており、直観は直観のままであってはならず、直観は認識とならなければならない。直観のうちにとどまっていることはできない
  • 直観によって心に思い描いた像を対象と関連付ける必要がありその対象を心のうちの像で規定されるものと考えなければならない
  • 対象は次のいずれかの方法で規定される
    • 対象を規定するために利用する概念が対象によって規定されている
      • 何かをアプリオリに知りうるかがわからなくなる
        • (例によってこの反例はよくわからない)
    • 対象が概念によって規定されている
      • これは「経験が概念によって規定されている」と同じ
        • 対象は経験のうちだけで認識できるから
      • 経験は知性による認識方法
        • 経験=対象以前にアプリオリな知性の規則が存在すると想定しない訳にはいかない
        • 知性の規則はアプリオリは概念として表現される
        • 経験のすべての対象はこのアプリオリな概念に必然的に従い一致せざるを得ない
  • わたしたちが事物についてアプリオリに認識できるのは、事物にあらかじめ入れておいたものだけ(自然科学の実験にならった方法。次段落参照)

V11n 実験の役割

  • この方法は、純粋理性を構成するさまざまな要素を実験によって存在が確認および否認されたもののうちに求めることにある
  • 純粋理性の命題が可能な経験のあらゆる限界を超越したものであるときにはその客体についていかなる実験も行えない
  • 実験が行えるのは、アプリオリに認めた概念と原則だけについてである
    • (?どんな実験?経験を超越した命題とどう違う?)
    • そのために概念や原則に工夫を加えて
    • 同じ対象を、以下の二つの異なる側面から考察する
      • 一方では、感覚能力と知性の対象として経験の対象とし
      • 他方では、思考されるだけの対象、経験の限界を超え出ようとする孤立した理性の対象とする
  • 事物について二つの側面から考察すると純粋理性の原理との一致が確認され
  • 片方だけだと、理性が自己矛盾することが確認されれば
  • 経験の対象である現象と、理性の対象である物自体との区別が正しいと証明される

(「実験」とは要するに何をすることなのか?考えてみること?)

V12 理性と無条件的なもの

  • ただし不利な結論がある
    • 我々のアプリオリな認識能力では可能な経験の限界を決して超えられないが、形而上学の本質的な課題はまさに、可能な経験の限界を超えること
    • 物そのものは認識できないもの
  • 経験とあらゆる現象の限界を越えようとするのは必然的
    • それは、経験によって限界付けられないものが存在するため
    • だから理性は
      • 経験できない物自体に、人間の自由や神のような、条件付けられないものを求める
      • 条件付けられた経験的なものが、神によって完結することを求める
        • (ここわからない)
    • 「それはごく正当なことなのである」
  • 経験的な認識が物自体によって規定されていると考えるとこの条件づけられないものは矛盾なしには考えられない
  • 現象としての対象が心を思い描く方法によって規定されていると考えると矛盾は消滅する
    • さらにこの条件づけられないものは、現象にはないが物自体にはあるのだろうということもわかる
  • 実践のための空き地
    • 思考する理性は感覚を超越した領域では一歩も前進できない
    • 理性の実践的な認識にこの条件づけられないものという超越的なものが存在するのではないか
      • 実践的な意味でのアプリオリな認識によって可能な経験の限界を超えることができるものが与えられていないかを検討してみることが残されている
      • そうした拡張のための場所を空き地として残しておいた

V12n1 総合の手続き

注1

  • 純粋理性のこの実験は化学における還元と似ている
    • 一般には還元というよりも総合の手続きと呼ぶべき
  • 形而上学者の分析は、アプリオリで純粋な認識を、二つの異なる性質に分類する
    • 現象としての認識
    • 物自体
  • 弁証論はこの二つの認識をふたたび結びつける
    • 理性が考え出さずにはいられない条件づけられないものと調和させ(?)
    • この調和がV11nの区別によって生まれること(?)
    • この区別が真の区別であることをみいだす(?)

V12n2 仮説としての思考方法の変革

  • わたしも序文では仮説として示すが本文では必然的なものとして証明される

V13 形而上学の幸運と義務

(序文は流した方がいいような気がする)