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P111
■066 空間と時間の現実性と観念論
- 外的な対象の現実性は厳密な意味では証明できない
- 外的な対象は仮象かもしれない
- 人間の内的な感覚能力の対象が現実性をそなえていることは意識によって直接に確認できる
- 内的な感覚能力の対象は否定することのできない現実的なもの
- わたし自身とわたしの内的な状態
- 内的な感覚能力の対象は否定することのできない現実的なもの
- わたし自身とわたしの内的な状態
- どちらも現象
- 現象は二つの側面をもつ
- 客体そのものが考察される
- 対象を直観するための形式が考察される
- この形式は客体そのものではなく客体が現れる主観のうちに求める必要がある
- この直観の形式は対象の現実に現実的・必然的に帰属する
- この形式は客体そのものではなく客体が現れる主観のうちに求める必要がある
■067 空間と時間の絶対的な実在性を主張する人々の誤謬
- 時間と空間は認識が生まれるための二つの源泉
- 時間と空間は、感覚能力による<すべての>直観の純粋な形式であり、これによってアプリオリな総合命題が可能になる
- 時間と空間はアプリオリであることによって限界を定める
- 物自体を描き出すのではなく現象としての対象だけを考察する
- 現象から外の領域に出た場合は客観的に利用できない
- これは経験的な認識の確実性を脅かすものではない
- 経験的な認識は確実
- 空間時間に絶対的な実在性があると主張すると経験の原理と矛盾する
- 自存する場合=すべての現実的なものを含むが、自らは現実的なものではない、ということになる(?)
- 現象に数学的な主張は適用できる。現象から外に出ようとすると困惑した立場に陥る
- 物自体に内在的にむすびつく場合=経験から抽象されたもの(混乱して思い浮かべられた現象の緒関係とみなされる?)=アプリオリな数学の理論が必然的に確実であることを否定しなければならなくなる=空間と時間は想像力の産物ということになる
- 自存する場合=すべての現実的なものを含むが、自らは現実的なものではない、ということになる(?)
■068 超越論的な感性に含まれる要素は空間と時間だけである
この超越論的な感性論は空間と時間の二つしか含むことができない
- 感性に属するその他すべての概念は経験的なものを前提としているから
- 運動・変化の概念は経験的
- <時間そのものは変化しない。時間のうちにある何かが変化する。>
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第八項 超越論的な感性論についての一般的な注
〔1〕
■069 感覚的な認識の基本特性
この理論を誤解しないようにするには
感覚能力による認識一般の基本的な特性を明確にする必要がある
■070 空間と時間という条件の要約ー物自体の認識の否定
- すべての直観は現象について心に描いた像
- 事物そのもの、関係そのもの、ではない
- 主観を除去するとすべての事物も関係も時間も空間も消滅する
- 対象そのものは知ることができない
- 対象を知覚するこの方法は人間固有のものであり他の存在者と共通するかどうかはわからない
- 空間と時間は対象を知覚するための純粋な形式であり感覚一般がその素材
- 空間と時間は
- これだけはアプリオリに認識することができる
- 感覚一般は認識のうちの存在する
- 感性に絶対的必然的に付属する
- この条件下でのみ認識できる
- 対象そのものは決して知られない
■071 概念と像の違い
(法の例えが理解できない)
- ライプニッツ
- 人間は物自体を認識するが感性による認識は混雑していて判明ではないと主張した
- 判明な像と判明でない像を単に論理的な区別とみなした
- 法の概念には、理性が含まれ、人間行動そのものの道徳的な特性を示す
- 物体の像には対象そのものに属するものは何も含まれていない
■072 ライプニッツ哲学の批判
- ライプニッツは感性と知性の違いを単に論理的な区別とみなした
- 知性は判明な認識、感性は判明でない認識
- 感性と知性の区別は超越論的な区別
- 認識の起源と内容の違い
- 人間は物自体を全く認識しない
- 主観的な特性を取り除くと
- 像である客体も
- 感覚能力により直観によって客体に府属すると想定された客体の特性も
- 存在しなくなるし、そもそも存在しえない
- この特性こそが、現象として、客体の形式を規定している
○普通要約は修飾や繰り返しを除いて主要論点だけを抽出するものだが、純粋理性批判では段落ごとの要約が難しい。同じようなことを繰り返しているだけだから要約すると同じになってしまうし、同じような繰り返しのなかで、修飾や表現を変えて同じことを少し変えて言うその変奏こそがそれぞれの場面ので重要だと思えるので、修飾のしかたの違い、微妙な表現の違いを略することができず、そのまま受けとめざるをえない、ように感じられる、から。
■073 ロック批判
- ロックの第一性質
- 現象の直観に本質的に属していて人間のすべての感覚能力一般に妥当する現象
- ロックの第二性質
- 現象の直観に偶然的に付随していて感覚能力の特定の位置や器官だけに妥当するもの
- これらは経験的な区別
- 現象には物自体に属するものは何もない
- 「超越論的な客体」=物自体
■074 感性論の役割
超越論的な感性論の重要な条件は
学問の道具として役立つ理論にふさわしいものとして
確実で疑問の余地のないものとなること
■075 アプリオリで必然的な総合命題のための条件
- 空間と時間がそれ自体として客観的であり物自体を可能にする条件だと想定してみよう(この想定は背理法的な想定だと思われるが話が長く矛盾が導かれるからやっぱり違いますねとなる結論から前提の否定になる流れが直感的にはわかりづらい。背理法ではなく正しい仮定だったのでは?と何度も戻って見てしまう)
- この想定に基づき多数のアプリオリで必然的な総合命題が作られる
- このアプリオリな総合命題をどこから取り出してくるのか
- 何に依拠すれば絶対的で普遍的に妥当する真理に到達することができるのか。
- 概念によるか、直観によるか、の二つしかない。
- アポステリオリに与えられた経験的な概念からは必然性も普遍性もでてこない
- アプリオリな概念か直観から取り出すしかない
- 直観なしの概念からはアプリオリな総合命題を作り出すことはできない
- 「二本の直線だけでは閉じた空間を作り出すことはできない」
- 「三本の直線から一つの図形を作り出すことができる」
- 直観からアプリオリな総合命題を作り出す場合はアプリオリな直観でなければならない
- 経験からは普遍性・必然性な命題を取り出すことはできない
- 対象がそれ自体で存在する何かだったらどうだろうか
「この対象(三角形)が、わたしたちの主観とは関係なく、それ自体で存在する何かだとしたら、どうなるだろうか。わたしたちは、この三角形を構成するために自分の主観的な条件のうちに必然的にそなわっているものが、そのまま三角形それ自体にも必然的にそなわっているものであることを、どのようにして断言できるのであろうか?というのもわたしたちは(三本の直線という)概念に何も新しいもの(図形)を付け加えることはできないであろうからであり、とするとこの新しいもの(図形)は必然的に対象のうちにみいだすしかないものである。これは、わたしたちの認識によって与えられたものではなく、認識する前から与えれていたものなのである。」(ここわからない)
時間空間が経験が成立するための必要な条件であることは単に可能であるとかありそうだとかいうものではなく疑いの余地のないほどに確実なことである。
それは人間が直観するための主観的な条件にすぎずこの条件のもとにあるすべての対象は現象として現れるのであり物自体ではない。
〔二〕
■076 叡智的直観と自己意識について
- 直観とみなされるすべてのものには関係しか含まれない
- この関係とは、場所、場所の変化、変化を規定する法則
- 場所に存在しているものが何であるか、場所の変化以外にどのような作用が働いているかは直観によって認識することができない
- 外的な感覚能力がこの関係についてもつ像には、主観とその対象の関係しか含まない、客体そのものに内在する内的なものは含まれない
- 内的な直観も同じ
- 内的な直観の素材は外的な感覚能力によって心に描かれた像
- 像を心で思い描くための形式的な条件として時間を土台にしている
- 時間には
- 継起的な存在という関係
- 同時的な存在という関係
- 継起的に存在するものと同時的に存在するものとの関係
- が含まれている
- 心の中に思い描かれる像で、何かを思考するすべての行為に先立って存在しうるものは、直観しか考えられない。この像には関係しか含まれていないのなら、それは直観の形式であるとしか考えられない。
- 直観の形式は、それ自体では何も思い描かない。何かを心に持ち込む必要がある。何かが心に入ってきて心が触発される方法を示すのが、この直観の形式
- 内的な感覚能力が触発される方法
- 感覚能力によって思い描かれたものはすべて現象
- 内的な感覚能力の対象である主観
- たんなる現象として思い描くしかないのか
- 内的な感覚能力などないと考えるのか
- 内的な感覚能力の対象である主観
- 自分について判断するとき、主観が自発的な活動として、叡智的直観としてみずからを直感するときは、このようなことは起こらない
- <人間は道徳などの実践においては物自体として行動する>
- <叡智的直観>
- <認識においては物自体を認識することはできない>
- <人間は道徳などの実践においては物自体として行動する>
- 主観がどのように自己を内的に直観するか
- 自己についての意識=自己統合の意識=統覚=わたしについての単純な像
- この像のみによって主観におけるすべての多様なものが<自発的な活動として>与えられる
- このときこの内的な直観が叡智的直観となる
- 前もって主観に対して多様なものの内的な知覚が与えられている必要がある
- 心の中の自覚的活動なしで多様なものが与えられる方法は感性と呼ばれる
- 自己を意識する能力は心を触発しなければならない
- 多様なものが心のうちで一緒に存在するための方法を時間の像によって規定する
- 自分の像を自発的に直接思い描くのではなく
- 自分が内部から触発される方法に従う
- 自分を<あるがまま>ではなく、<自分に現れるままに>に直観する
〔三〕
■ 077 現象と仮象の違い
- 現象は仮象ではない
- 現象において客体は現実に与えられている
- 現象としての対象と客体そのものとしての対象は区別される
- 物体はわたしの外部に存在するように見えるだけ
- わたしの魂は自己意識の内部に存在するように見えるだけ
- ということではない
- 直観は観念的だと考えればこうしたことは起こらない
- 時間空間に客観的な現実性があると考えるとこうしたことが起きる
■077n 仮象の発生
- 現象は常に客体そのものに付随するものではなく客体と主体との関係において語られる
- 判断を、対象と主観との関係だけに制限しない場合に、初めて仮象が発生する
〔四〕
■078 神は空間と時間のうちに存在するか
- 神は直観の対象とはなりえない
- 神=自然神学において考えられている対象
- 自然神学=聖書による啓示ではなく人間理性によって考察する
- 神=自然神学において考えられている対象
- 神という対象についての直観からは空間と時間は排除されている
- 対象を認識するためのすべての手段は直観であり思考ではない
- 思考は常に制限を加える性質のものだから
- 対象を認識するためのすべての手段は直観であり思考ではない
■079 派生的な直観――天使が直観するとき
- 根源的な直観は根源的な存在者だけに属する
- 空間と時間という直観は人間だけが持つものではないかもしれないが派生的な直感
超越論的な感性論の結語
■080 超越論的な哲学の課題のための第一条件
- わたしたちの概念の外に出ようとするときに、空間と時間のうちで出会うのは、その概念のうちにはないが、その概念に対応する直観のうちにアプリオリに発見されて、その概念と総合的に結び付けられうる。
P141
「超越論的な感性論」おわり