なぜあの人はあのようなのか、私はああでないのか

私は最初からそうだったんですけれども、信じようと思っても信じられない、私ならとても信じられないような変なことを信じきっている人という人がたくさんいまして、政治的にも、思想的にも、宗教的にも、医学的にも、ねずみ講的にも、そういうのはいろいろあると思いますけど、なぜあんなことが信じられるのだろう?なぜあんなものに肩入れできるのだろう?見れば一瞬でインチキだとわかるではないか、というものがありますけど、見れば一瞬でインチキだとわかることを信じている人に向かって、反証可能性とかそういうことを言ってもしかたがないというか、見れば一瞬でわかるようなことをわからない人に、長時間何度も考えないとわからないようなことを言ってもだめだろうというか、反証可能性とかそういうことは見れば一瞬でわかるようなことの積み重ねの上にあるのだから、見れば一瞬でわかるようなことが成り立たない場合その前提の先にあるものが通用するはずがないというか、それで説得できるはずがなくて、もっと治療的なアプローチが、原因究明的、実効的なアプローチが必要ではないか、インチキって言ってるけどもしかすると自分の方がインチキ側なのではないかとか、と思うのですけれど、どんなに社会が「進歩」しても、それが社会である限り必ず一定数は「異物」というか、「厄介者」が存在し、それが存在してこそ社会であるみたいな話があるとして、その厄介者を減らす