内輪じゃない言葉

民主主義をはじめとするイデオロギーに染められた「符牒」で語られている政治談義や新聞雑誌だけが「内輪」の言葉を使っているのではなく、小説こそが「小説らしさ」を再現するだけの自閉的な言葉で書かれている。
 

新聞や政治の言葉とは違った意味で、もっと巧妙に、だが、もっと悪質に、詩や小説は「内輪」の言葉を使っているようにみえました。僕はどんな「内輪」の言葉づかいにも我慢ならなかった。だが、「内輪」以外の、どんな世界の「内輪」にも属さない言葉があるだろうか。(中略)確かに、その「小説」に使われている言葉は、僕の使う言葉ほど「内輪」でも「自閉的」でもないかもしれない、あるいはずっと豊穣なのかもしれない。だが、僕にとっては、その傲岸なナイーヴさ以上に「内輪」なものは存在しなかったのです。

 
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E9%9B%85%E3%81%A7%E6%84%9F%E5%82%B7%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%87%8E%E7%90%83

「内輪の言葉を喋る者は誰か」の中で、自作を「『親密な』サークルだけに通じる符号性をアテにした言葉で書かれる文章」だと批判した富岡多恵子に反論してこう書いています。
 
「清涼で豊かな、そして自由な言葉の世界を夢見ない作家がいるでしょうか。僕はいまでもずっと夢見つづけています。そして、その世界が、願望によって一足飛びに辿り着ける世界ではなく、僕という半ばは僕自身にとっても選択できない環境によって形づくられた固有の肉体を通してしか行き着くことのできない世界なら、僕はその頑迷な肉体と折り合いをつけながら、少しずつそこへ近づいてゆきたいと思っています。」
 
http://www.tatsuru.com/columns/simple/24.html

「僕という、なかばは僕自身にとっても選択できない環境によって形づくられた固有の肉体を通してしか行くつくことのできない」「自由な言語の世界」を求めます。それが文学の生理です。それはまっすぐに「普遍」をめざすのではなく、必然的に「内輪」を通過せざるを得ません。おのれが今語りつつある言語がどうしようもなく「内輪」のものでしかないという事実を痛みと恥とを感じつつ経験すること
 
http://www.tatsuru.com/columns/simple/24.html