どうも考え方の異なる相手というよりは治療対象と見られていると言ったほうが適切なようです

どうも考え方の異なる相手というよりは治療対象と見られていると言ったほうが適切なようです。
宗教はアヘンである」(宗教はアヘンのように魅力的であり人を壊す物でありそれを必要とする社会的諸原因が生むものであるから必要なのは宗教をする人への批判ではなく宗教を必要とする社会の変革である)と言うときにも、宗教をする人は、治療対象に過ぎない。宗教に対する批判はもうとっくに終わっている。「終わってなどいない」というところからマジメに私は始めるべきなのかと思っていたがそうマジメに思うという自分に対する偽装によってやはり私は治療を行おうとしていたように思える。
私こそ自分を絶対正しいと感じ考えていたのであり、そうでないと治療などという考えは出てこない。そりゃあ相手は怒るわけです。
と考えたからこそ本当に相手を認め真面目に向き合うならむしろ徹底的に傲慢な説得的教化を行い合うべきではなのか。党派的な内輪の言葉で相手を断罪し嘲笑し呪うという正直でまっすぐぶつかるやり方こそ相手を本当には認めているのではないか。
と考えていたのもすでにわりと昔のことだったのではないか。
「真偽や善悪と存在価値とは独立」と言った時それは何を目指しているのか。私が目指したいことを目指していることは私の役にしかたたないのではないか。まあそれでいい、と言うか、それしかないのかもしれませんが……。