「フェミニズムの歴史を知らない人のフェミdis」を「神」を信じている絶対正しい我々が神に代わって断罪

フェミニズムの歴史を知らない人のフェミdisを読むと、「神よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という聖書の文句を思い出す

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こういう姿勢が、自分が何をしているかわかっていない人をさらに増やす役割を果たしている、という認識が最低限必要なのではないだろうか。
真正面の指摘はもちろん必要で、ある意味それしか必要ではない。だからこう言うことは正しい。
同時に、「フェミニズムの歴史を知らない人のフェミdisを読むと、「神よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という聖書の文句を思い出す」などと言う人を見ると、「フェミdisが存在せざるを得なかった理由や原因を全く考えないまま批判するどころか、ただからかっているだけの人を見ると、「神よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という聖書の文句を思い出す」と言いたくなる。この人はフェミニズム(の歴史)を知り理解する人を増やしたくないのか、自分の考え方に合わない人をただからかってうっぷんを晴らしたいだけ(そしてフェミニズムの歴史なんか理解するか!という人を増やしたいだけ)なのか。
しかもここで、神そして聖書、つまり宗教の言葉を持ってきているところに、その心性が典型的に表れている。
宗教(伝統宗教新興宗教、カルト宗教にかかわらず)こそ、自身へのまっとうな批判に対し、「お前は何もわかっていない」「もっと神について勉強してから来い」「私たち(神・聖書)のほうが絶対正しいのだからどんな批判であれ批判してくる方がおかしい」という態度をとる典型的な集団なのであり、そういう集団に自分を模しているわけです。そんな人が何かを説教したり批判したりからかってきたりしたら、まともに話を聞く気になれるだろうか?
いまどき(というかいつの時代であれ)、仮にでも宗教に肩入れするようなことをするとしたら、「存在しない神に祈る」(田川建三)ぐらいしかありえないことぐらいあたりまえのことではないか。
という考え方をAとします。それに対し、Bとして