説得しない

言葉では表現できない、とか、言葉では伝わらない、というのは端的に誤りだと思えますが、言葉や理論では説得できない、も同様に誤りです。
説得ということを、自分側の理論で行っても、理論で説得されるわけではなく、という言い方もまた同様に誤りです。
 
どんな人も、集団も、一応は、正しい、ということを根拠にするようには思われる。
正しさなんてどうでもいい、正しいことなんてつまらない、おもしろいことをしたい、おもしろいことの側に立ちたい、という言い方もあるけれども、その場合は、おもしろさというわかりやすい正しさを明確に打ち出しているから、わかりやすい。
「まず、5+7=12、ですよね?これは認めますか?5+7は10でも15でもない。12だ、ということは間違いないですか?」
5+7=12によほど特殊な解釈をしない限り、これは正しいと言わざるを得ない。当たり前であえて言うほどでもないからこういうことを言ってしまうと逆に特殊な解釈を呼び寄せてしまう。目的は、正しいことは正しい、ここは認めますか?ということだ。
ここで認めないことは難しい。間違ったことを正しく思うことなんて不可能なように思えるからだ。いやこれはそういう論理的な話をしているのではない。不条理、事実ではないこと、間違ったこと、そういうことを、あえて選ぶようなことを、しませんか、という意味だ。ここはどんな人や集団にとっても出発点となる。
 
しかし本当には誰もそうではない。正しいか間違っているかなんてどうでもよい。自分の信じるAが正しいと思えと言うから正しいと思うのです。Aが間違ったことを言うはずはないのだからAが言うことを正しいと思う、というのが正解なのです。Aが間違っているかもしれない、Aが事実を間違えて認識しているかもしれないじゃないか、という疑問を持ったらそういう疑問を持つこと自体がもうわかってない、ということになるのです。
 
これは当たり前のようで、全く間違っているようで、その通りかもしれませんが、すごく重みを感じる。あるいは正しさの意味を間違えて考えている。
 
では、Aを信じる人、Aでないことを信じる人、信じるというようなことを全く信用しない人、事実と正しい認識が基本だと思う人、いろいろいると思いますが、そういう人を説得するにはどうすればよいか。
 
なぜ説得しなければならないのか。通じさせたい。広めない。広くわかってほしい。自分に似た人以外にも通じてほしい、そういう気持ちなのか?
ほとんどの人は通じなくてよいと思っているし、それは自分でも同じではないか。
ハロの魅力は48やZとは違うのでありそれをハロファン以外にも知ってほしい、とは全く思わない。
 
これは大したことではない。
 
いちごシュートケーキを食べるとおいしい。怒っている人を見ると影響を受ける。静かで、晴れていて、涼しく、風が吹いていたら、いい感じがする。病気の時より健康な時のほうがいい。雨の降った日の落ち着きがいい。「このコーヒーカップすてきねぇ(すてきとは思わない。ここはいつ読んでも強烈な違和感がある)」。
そういう人間の基本的な性質(岩盤、世界像)による誘導、説得ではなく、説得されていることも、なぐさめられていることも気づかないうちに、なんとなくいい気分がする、なんとなくありがたく感じる、嫌な気持ちがする、そういう話をする。結局これは理論的な話ということになるわけですが…。