能力の差という圧倒的な現実をどう受け止めるか

私の周囲では「順位のない徒競走」は今はなくて、ランダム性の強い障害走(「後ろ向き」とか「ドリブル」とか書かれたカードをめくってそれに従う、等)が多い。機会の平等というか、能力差を人前で晒すことの忌避。 2011/11/07
 
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/QaNiM1S0/status/133079350743543808

学校では優しくも(甘くも)そのような現実に向き合む機会を減らすような配慮がある(みんなが楽しむべき運動会ではせめて、ということでしょうか)ようですが、そういう配慮があろうとなかろうと、日々、時々刻々、圧倒的な能力差というのが人間には存在し、それを思い知らされながら生きていかなくてはならないのですが、それをどう考えればいいのでしょうか。
 
「100mを9.8秒で走ることができる人間が存在し、それに見合った報奨を得ているが、私は100m走るのに20秒かかるため、100m走ってもお金をもらえない」と考えるのはたやすい。わざわざ意識しなくても、自然と素直に受け入れている。受け入れている、ということすら意識していない。
しかしある程度の年齢に達した人間ならできて当然、この社会のこの集団に属するならそれができなければならない、という基準があり、その基準にぎりぎり達しているかいないかという場合がある。この場合は苦しい。では所属するのに楽な集団に切り替えればよいのか、というと、そうもいかない場合がある。