勝ったとしても正しくない議論を正しくないと判断するのは誰か

営業マンの議論は勝ったが正しくなかった、ということは理解できます。私たちは、営業マンの議論が正しくない、ということについて理解できます。理解どころか、実感をこめて、そのとおり営業マンの議論は正しくない確かに営業マンの議論には負けたが、と思いがちです。
だとすると、この営業マン自身は、自分の議論は正しくない、と考えるでしょうか。
引用文の論理、状況から考えると、営業マン自身ですら、自分の議論が正しいと判断できる余地は少ないのではないか、という結論になるような気もします。
営業マンは、当然、自分は議論に勝って勧誘の説明をできたし、自分の議論は正しかった、と思うだろう、と考えたとすると、私たち自身は、営業マンの議論を正しいと判断できる可能性があることを認めることになります。これはごく普通の、常識的な結論のように思えます。対立する議論があり、両方にそれなりに熱心に入れ込む人がいるのなら、どちらにも何らかの「正しさ」がある可能性はあるものではないか。
しかし、最初に引用文を読んだとき、そんな余地はありませんでした。そのときは、確実に営業マンは間違っていた。議論に負けれ話に付き合わなければならなかったが、営業マンの話をいやいや聞くことが正しいことのはずがない、そうだ、議論には勝ったとしても正しくないものがあるのだ、そう強く思えました。ここにおいては、例え投資を勧める営業マンでも、自分が水飲み機の設置を勧められたら、そんな勧誘は正しくない、と思うのではないか。この意味でやはり営業マンの議論は間違っている、に決まっている、ということになるのではないか。
となると、ここでは、行われた議論において勝ち負けはあっても成否は決まっていない、議論自身ではないところで議論の成否が決まっているということになるのではないか、議論の内容をいくら正確に見つめても、そのことによって議論の勝ち負けはわかっても、成否はわからないということになるのではないか、ということになるのでしょうか。