「正しくはないが勝った議論」とはどのような議論か

これって、職場や家庭での議論やネットでの議論にも言えて、単に知識と議論経験が豊かで論争に強い人間が議論に勝つことも多く、正しい方が議論に勝つとは限らない。
つまり、議論で勝つことは議論の強さの証明であって、正しさの証明にはなっていない、なんてことはいくらでもあるのである。

上で「営業マン」がどのように議論を展開したか詳しくは書かれていませんが、「営業マン」は「あの手この手で理屈をこねてきて」、投資の勧誘を一時間ほど受けなければならなくなった、と書かれています。しかしそれは「無駄」で、「営業マン」は議論に勝ったかもしれないが、勧誘を受けないほうが正しかった、だから、勝つ議論が正しい議論だとは限らない、と結論付けられています。

ここにおける「勝ち」は、どのように正しさとは結びつかないのでしょうか。その、「勝ち」とはどのような勝ちでしょうか。どのような「勝ち」だから、正しさと結びつかないのでしょうか。どのような「勝ち」なら正しさと結びつくのでしょうか。正しさと結びつく議論、結びつかない議論、とはどのような議論でしょうか。なぜ営業マンは議論に勝ったのに、正しい議論をしなかったことになったのでしょうか。

営業マンは、たとえば、どのようなことを言えば、「勝つ」かどうかはともかく、正しい議論ができたことになるでしょうか。
もしくは、営業マンの議論のうち、正しい部分があるとすれば、それはどこでしょうか。それとも、正しい議論は一切含まれていなかったのでしょうか。

もし、営業マンの議論には一切正しさが無いとしたら、何を言っても正しい議論ができたことにならないとしたら、それはなぜでしょうか。とにかくこの場合は、議論の内容が問題ではないことになります。議論以前に、正しい議論ができる条件が整っていなかった、ということになります。
ただ、この営業マンが、一日中10分に一回電話をかけてきたり、毎日電話をかけてきたりしたら、仕事が一時間邪魔されて迷惑した、だけでは済まないでしょう。だから、議論以前の問題だとしても、仕事が一時間邪魔された、という程度で済んだという正しさはある、と言えるのではないかと思います。