社会的でない行為

どんなことをしても、人間が行うならそれは社会的行為、他の人間を意識した行為になってしまう、とするなら、「人に向かわないやりがい」は不可能になってしまう、のではないか、と思います。
(お金を得るには他人から得るしかない、自分でお金を作ることはできない(お金は人間の髪の毛や爪のように毎日簡単に手に入るものででできていない)、という問題もありました。)
他人が関係ない自分だけの楽しみ、というのは、そもそも、行為や楽しみが他人と関係するしかないものだとすると不可能だった、ということになりますが、それを確認した上で言える「人に向かわないやりがい」というのはあるかと思います。
たとえば、職業があり、仕事関係があり、知り合いがあり、趣味の仲間があり、学問の仲間があり、運動の仲間があり、家族があり、夫があり、子どもがあり、親があり、友人があり、ダジャレ仲間があった場合、それらがまったく無い場合と比べて、非常に楽し(くまたつら)い充実した人生Aを送れるように思います。それらがまったく無い場合に仮に充実した人生Bを送れるとしたら、その差A-Bは何でしょうか。
いや、人生から充実や人間関係を分離することはできない、人間関係や充実こそが人生なんだ、それが多いか少ないかだ、だとしたら、ゼロの場合の話を考えようということです。私はゼロでありたい、ゼロであることが、この私の、私らしい生き方だ、と思っているのではなくて、ゼロが可能か、の話をしたいわけなのです。仲間が多いならそれが良いに決まっています。私は気持ちよいベッドで寝て、おいしいものをたくさん食べ、人を好きになり、人に好かれ、楽しい話を、楽しい仲間としたい人間です。

さて、A-Bは何でしょうか。いきなりさっき言っていたことと違うじゃないか、ということを考えますが、Aにおいて生きがいや楽しさとして昇華されてしまったとき、昇華されずに残るBの行き先はどういう場所になるでしょうか、ということがずっと念頭にあったのです。しかし、ほとんどの人は、Aであるからこそ、より、大きく広く長く活動するのであって、Aであることによって活動源が消費されたりはしない、むしろBである場合は、より小さく狭く短いままだけ、というのはありそうなことです。関係が生まれると関係の世話に忙殺されるのではなく、新たな活力源となる、本当に、勝手なことを言ってすみません。関係はまさしく活力源などではなく、関係そのもの、人生そのものでしょう。関係を「活力源」かどうかなどという視点でしか語れないのなら、せめて、関係なんて私のやりたいことを妨げる邪魔発生装置だ、と言って済ませるべきかもしれません。それにしても、わずらわしさから逃れたのではなく狭い方向に追い詰められていくだけ、ということは、Bにとっては、いわゆる、悲し過ぎ、ではないでしょうか。

言おうと思っていたことにたどりつけませんのでそこだけ書いて寝ます。人間がする他人と関係ない行為というのがもしあるとしたら、人間の生物的物理的条件によってもたらされる例えば睡眠や食事や性行為という「本能」による行為というのがそれなのではないか、という問題があります。そういった本能的行為ではないこととして、他人と関係ない、やりがい、というのはどのようなものになるか、というところから話を始めたかったのですが日記は終わりました。

あと、出家仲間というのは形容矛盾というか形容ではないですが、溺れるのを習ってるようなものではないか?という気もするのですが、たぶん出家について私の理解や知識が足りないのだと思いますので勉強しようと思います。文庫を1,2冊だけ読んで(読んだ気になって)勉強といえるかなという問題はあると思います。