幸福の連続性

幸せだと思われていた人が実は不幸だった、不幸だと思われていた人が実は幸福だった、できると思われていた人が実はできる人ではなかった、できないと思われていた人が実はできる人だった、のかもしれない、ということは、ありそうなことに思えるが、実はありえないことです。
(「ありそうなことに思えるが、実はありえない」ことにおける「実は」は、「幸せだと思われていた人が実は不幸だった」の「実は」と種類が違います。)

幸せだと思われていた人が実は不幸だった、不幸だと思われていた人が実は幸福だった、できると思われていた人が実はできる人ではなかった、できないと思われていた人が実はできる人だった、ということは、いずれも、幸せだと思われていた人が不幸であることが確認されて初めて不幸だと言えるようになるのであり、幸せだと思われていたときは幸せでしかありません。もしかしたら不幸かもしれない、というだけで、幸せな人が不幸かもしれないと言うことに意味はありません。その時点では幸せでしかなく、不幸であるという証拠を得ることができて初めて不幸だと言えるだけだからです。そして、幸せだと言われていたときにはそう言われるだけの証拠が積み重なっているのであり、その時点での幸せは磐石なものです。この時点での確固とした幸せは、1個や2個の不幸の証拠がこの先見つかってもそう簡単には覆りません。常に個別的にしか言及できない「実は」程度で幸せは揺るがないのです。