幸福はほとんど幸福と思いにくい

 「あるけなげな男が、かつて、人間が水に溺れるのは彼らが重力の思想に取りつかれているからでしかないと思い込んだ。たとえばこの観念を迷信的な観念、宗教的な観念と言明することによって、それを頭から追い払えば、彼らはすべての水難を免れるというのだ。生涯にわたって、彼らは重力の幻影とたたかった」(新日本出版社科学的社会主義の古典選書〉版、10ページ)

 人が溺れるのは、重力があると思い込んでいるからで、その思い込みを頭から追い払えば、人が溺れることはなくなるのだ、こういうものの見方をマルクスは観念論とよびました。なにかの観念――この場合は重力があるという思い込み――が、現実――人が溺れるということ――をつくりだすのだ、という種類のものの見方です。

 これに対してマルクスの見解は、まったく逆のものでした。人が気づこうと気づくまいと、現実世界には重力がある、だから重力に逆らう泳ぎの技術を身につけなければ、重力をどう考える人であれ、みんな溺れてしまう、そもそも「重力の思想」は現に重力があるから生まれてくるのだ。マルクスはこのように、観念が現実をつくるのでなく、現実こそが観念をつくる大もとなのだと考え

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おいしいものを食べて「しあわせだなぁ」と思ったり、つらいときに多くの仲間から暖かい言葉をもらって「ありがたいなぁ」と思ったりするということは、一般的に幸せ、なのでも、普通の感覚の幸せ、ということでもなく、こういう感覚を率直に幸せと呼ぶべきなのであって、そうでないのならそもそも幸せという概念がどういう概念かわからなくなる、という根本的設定だと考えられます。
どんなに自分を不幸と思おうが、それよりもっと不幸な状態の人はいるし、いま生きているというだけで、多くの偶然や社会的諸関係や因縁に支えられた奇跡的な状況が重なっているということなのだから、それが幸福でなくて何なのだろうか、それを幸福と思わなかったら何を幸福と思えばよいのか、自分が不幸であると思うから不幸なのである、自分が幸福と思えば幸福なのである、という考え方があり、もちろんとても大事な考え方で、こういう考え方生き方に達しようとしてもなかなか達することができず永遠の課題になるような立派な考え方ですが、では仮に、自分が思いつく限りのあらゆるつらい状況下にいるとした場合、それでも自分は幸福だ、と言うとしたら、その場合、幸福とは何を意味するのでしょうか、幸福とは結局、生きている、だけのこと、生きていれば幸福、ということ、になってしまうのではないでしょうか。生きているだけで幸福である、と考えることも、どんな状況であろうと自分を不幸と考えないという思想と同じように、重要な考え方だとは思いますが、これは、幸福という言葉がもともと持っていた感覚、そもそもそれがなければ幸福という語感は生まれなかった素朴で率直な感覚、とはまったく違います。つまり、どんなことが起きても自分を不幸だとは思わず幸福だと思う、と言ったとき、もちろん心の底から感心し、そうでなければならない!と真面目に思わせられますが、同時に、「幸福」という言葉の意味がひそかにかえられている、ということなのではないか、とも思います。