人が商品(売り物)になるとき

「ボクはだめな男ですけど付き合ってください」に対して「これは涼しくならないクーラーだけど買いますか?と言われて買いますか?自分でだめだと思っているものを薦めるなんて失礼じゃないですか」という投稿を見た。
息子や娘なら例えどんな状態になっても欠陥品とみなさないことに対し友人や恋人は商品とみなす、というときがある。そしてそれを公言できる状況がある。恋人や友人がどのようになっても「欠陥品」とはみなさない、という状況も考えられる。息子や娘を欠陥品とみなして捨てる場合も当然考えられる。
人間を欠陥品(商品)とみなす場合とみなさない場合があり、それぞれ状況は異なる。
特に、自分を商品として売らなければならない状況、自分が商品にならざるを得ない、厳しい、というより、普通の選択にさらされるときはある。その選択は責められるべきことでも擁護されるべきことでもなくて、普通の、当たり前のことだろう。おいしいジュースを飲みたい、寒い日は起きにくい、暑い日は涼しい場所に行きたい、それと同じことではないかと思います。入学試験、入社試験、昇進昇給、減給、人に対して使えるとか使えないとか言う、いやこれは違うか。例えが退化しました。もっと自然な、晴れた日は天気が良い(永井)というような、左手が右手より短い人を好むという好みがあれば「私は左手が右手より短い人が好きなの。あなたは左手が右手より長いわね。だからだめよ」となる。そういうことだ。この世界の「自分磨き」は、左手を右手より短くしようとする努力を意味する。
それと同じことか? という疑問が少しでもあると、最初に戻る。それと同じことか?という疑問は、刷り込まれた思想みたいなものだろうか。