ネットで役立たなかった話

インターネットを読んでいて役立ったな、と思う話は、「すべからく」についての絶o望書o店さん(忘れましたがたぶん絶o望書o店さんです。自信がないので以下Zさんとします)の話です。
Zさんはまさに「すべて」の意味で「すべからく」を使用しました。それに対して、呉智英さんの指摘を知っていた人が、Zさんのすべからく誤用について嘲笑したのですが、Zさんはそれについてほぼ完璧に批判的返答をしました。
Zさんは、呉智英さんの「すべからく」指摘の鋭さは生きてはいるが、その指摘が鋭ければ鋭いほど、この誤用を見つけるとすぐに飛びつき、その鋭さ、有用性を自動的に適用しただけなのに何かできた気になった上で他人を否定する精神の怠惰さがまさに、鋭い有用性を持つ「すべからく」の誤用の指摘の対象と同種のものである、と反論しました。
Zさんの反論を初めて読んだとき、私もまた「摘発組」だったので(だった、ということも今もそうである可能性はあるのですが)、すべからく誤用指摘に反論などできるはずがない、と思っていた部分があり、Zさんの反論は難解晦渋に感じました。何度か読んでいるうちにようやく飲み込めて来たのを今でも覚えています。
普段なら反論としての晦渋な文章を見るとすぐに読むのをやめるのですが、やめずに反論を読み続けさせるものをこれまでのZさんに私は感じていたということでしょうか。なぜ読み続けたのか、こういうところが一番大事なところだとは思うのですがここを詳しく書く能力が私にはありません、ではなく、今後の課題にします。
これはたまたまインターネットで読んだ話ですが、呉さんの指摘は呉さんの本を読んでインターネットで文章を読むようになるよりも前(6、7年前)から知っていたし、呉さんと同じ指摘をする人やそれに対する反論をする人もネットではなく書籍雑誌等で読む可能性もあったわけです。いや、こんな細かいやり取りを書籍を通じて追うことなどなかったかもしれない、という意味では、こうした経緯を読んだことが良いことだったかどうかも疑問に思えてきます。(ネットより本の文字が偉いという意味ではありません。)
というわけでこの話は、とても考えさせられた大事な話、ではないか、とは思うものの、ネットで役立った話、とはあんまり言えない、とても考えさせられた大事な話、と思わなくてもいい部分がある話、のような気もする、そういう話でした。