名言

自分は流れつづけるひとまとまりの潮流ではないか、とわたしはときおり感じることがある。堅牢な固体としての「自己」という概念、多くの人々があれほど重要性を持たせているアイデンティティというものよりも、わたしにはこちらの方が好ましい。これらの潮流は、人生におけるもろもろの主旋律のように、目覚めているあいだは流れつづけ、至高の状態においては相互に折り合いをつけたり調和させたりという努力も必要としない。それらは「離れて」おり、おそらくどこかずれているのだろうが、少なくともつねに動き続けている──時に応じて、場所に応じて、あらゆるたぐいの意外な組み合わせが変転していくという形を取りながら、かならずしも前進するわけではなく、ときには相互に反発しながら、ポリフォニックに、しかし中心旋律は不在のままに。これは自由のひとつのかたちである、とわたしは考えたい──たとえ完全にそう確信しているとはとてもいえないにせよ。この懐疑的傾向もまた、ずっと持ち続けたいとわたしが特に強く望んでいる主旋律の一つである。これほど多くの不協和音を人生に抱え込んだ 結果、かえってわたしは、どこかぴったりこない、何かずれているというあり方の方を、あえて選ぶことを身につけたのである 
http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/J/OutOfPlace1.htm

いまでは、「ふさわしく」あること、しかるべきところに収まっている(例えば、まさに本拠地にあるというような)ことは重要ではなく、望ましくないとさえ思えるようになってきた。あるべきところから外れ、さ迷い続けるのがよい。決して家など所有せず、どのような場所にあっても(特にわたしが骨を埋めようとしているニューヨークのような都市では)決して過度にくつろぐようなことがない方がよいのだ。
http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/J/OutOfPlace4.htm

家を買うお金もなく友人がひとりもいず正社員になる能力も人間関係も持たない人(ミー)が上の名言をありがたがっていたら、それは名言ではなく、ただ自分のだらしなさを慰撫する権力のコピーをなでまわしているだけだ、ということになる。では、自分にとっての真の名言とはなんだろうか。どのような人がどのような名言に心打たれたら、真の名言に心うたれるになるのだろうか。たとえば、豪邸を買うお金があり友人がたくさんいて親友もいて趣味や仕事や友人など幅広い人間関係での会合が頻繁にありそこでリーダーとしての役割を務めるひとが上の名言をありがたがっている場合、それは真の名言に対する態度だと言えるのだろうか。もし言えるとしたら、真の名言とは、今の自分の状態と離れた状態を理想とするもののことを言うのだろうか。孔子さんはいろいろな名言を残したがそのなかには自分が採用されないことに対する嫉妬と取れるものも少なくなく存在するという話を昔聞いたような気がします。では孔子さんの言ったのは名言ではなかったのかというと、どうでしょうか。それぞれの場合によるということでしょうか。