何を言おうとできるか、について

「逃げてもいい」
という文章を見るとあたたかい気持ちになる、ことを私は避けられないが、これは個人的事情によるものであって、つまりあたたかいというより生ぬるい、と言うべきかもしれないがそれはともかく、このことについては今は考えない。いま考えたいのは、「逃げてもいいんだよ」という文章は不可能なことを言っているのではないか、それが不可能であることを利用して何か言った気になれるだけなのではないか、この不可能であることを利用して何か言った気になれる性を利用して言われてしまう文なのではないか、ということを説明しようと思う。このようなことを書くとほぼ必ず、不可能であることを利用して何か言った気になれる性を利用して言われてしまう文なのではないかということを否定する結果を見据えて書き始めてしまうのですが(不可能であることを利用して何か言った気になれる性を利用して言われてしまう文なのではないかということを肯定する結果になる文、最初に説明しようとした仕組みがそのまま結論になる文を、おそらくは書く気がおきない)こういう考え方が私の知能指数の低さや文章の下手さや頭の悪さと関係しているのではないか、と思います。それとは関係なく単に頭が悪いのだと思います。
「逃げてもいい」と言われても、逃げるのはだめで、踏みとどまってがんばるべきだから、悩みの克服や努力や成長や戦略や思考が出てくるわけで、