日記

私に小夜区か紆余区かなどということがわかるはずがないのにこうしたことを想像でもてあそんで何かをわかった気になっているというのがもっともだめなことだとは思いますが自分が敵対者に小夜区と呼ばれていることを喜ばしく、もしくは、僭越に感じる、という場面や、敵ながらその一貫性を尊敬するという場面(ここは同意できないと今でも思ってしまう)が『新世紀激』にありましたが、私も、比喩で言うと小夜区か紆余区かということが大事、つまり、結論というか内容の偏りがAかBかということが、もっとも重要なことであり、立派な人(立派といわれる人)にもそうはなりたくない立派な人もいれば、卑小な人にも、その意気や良し、と言いたくなる人がいる、と考えてきたのですが、最近は、立派な人であること、小夜区であれ紆余区であれ少なくともそう言われる・自覚するに値するだけの人になることが最も重要なことではないか、そうなれば、小夜区であるか紆余区であるかなんてことはどうでもいいことなのではないか、と思い始めていました。が、結局そういうのは雰囲気で考えているだけ、人にほめられたいだけ、なのではないか、やはり、実現されたことの程度ではなく、何を目指すべきか、どうであるべきか、ということが最も大事なのだ、ということを、久しぶりに「批評」を少し読んで思いました。つまり「元気」が出たわけです。こういう本が、若者を道に迷わせる本、と言われることもある本、なのかなぁ、と思いました。私はおっさんで……