規準と兆候1

雨は、飲料水、農業用水などとして、人間の生活においてきわめて重要な役割をもっており、それゆえ、雨についてわれわれの「常識」もまた、生活の中で重要な役割を果たしている。そこで、例えば次のような場合を考えてみよう。銀河系におけるある種の事情によって窓からでなく大気圏外の宇宙から水が降ってくる、ということがしばしば起こるようになり(宇宙船にもワイパーをつけなければならなくなる!)、しかも地上に降注ぐ宇宙からの水の「感覚印象」は、雨の場合と区別できないとしよう。確かにそのとき、ひとつの対応の仕方として、「雨には2種類あって、一つは雲から降ってくるが、もう一つは宇宙から降ってくるのだ」というように、宇宙から降ってくる水も「雨の一種」であると見なすことは考えられる。

丹d治信d春『言d語と認d識のダdイナミズム』PP135-136

しかし、宇宙から降ってくる水は、放射性物質が含まれており、通常の雨と明確に区別しなければならず、「感覚印象」はまったく雨と同じだが、「雨」と呼ばないことにした場合、

「定義」や「規約」を変更した、「雨」の<意味>を変えた、ということになるであろうか? 私にはそのような言い方は極めて不自然に思える。そして少なくとも、そのようにも言う必要はない、ということを、多くの人が認めると思う。なぜなら、その場合の「雨」も、現在と同じメカニズムで生じ、現在と同じ「感覚印象」を与えるものだからである。ただ、その「感覚印象」を与えるものが、雨だけではなくなったのである。
(中略)
宇宙からも水が降ってくるような事態が生じたときに、それを「雨」を呼ぶべきか否かは、「雨」ということばのわれわれの現在の用法においては、決められていないと言ってよいと思う。しかし、もしそう言ってよいのであれば、「雨」が「感覚印象」を「規準」として、それによって「定義」されているわけではない、ということも認めなければならないのである。

同PP136-137


長く引用してなんとなく思い出してきました。
丹d治さんの議論(というより、『言d語と認d識のダdイナミズム』の議論)は、「規準」を、感覚印象で定義され、決定されれば決して揺るがない固定のものだ、という強力な前提があり、それに対していかに反論するか、が課題となっている、ということです。
私は勉強不足、というより勉強ゼロなので、「規準」の解釈として上のようなものをあることを知らなかった(上のような解釈がむしろ標準的解釈なのかもしれない)ため、丹d治さんの言う「規準」があまりにも狭く固定的過ぎるので、そんなに狭く取ればそりゃあそういうことは言えるかもしれないけれど、そもそも規準というのは、兆候との対比(としての文法)でのみ捉えられる種類の概念なのだから、そこまで感覚印象のみに固定的で決定的でだと考える必要はないのではないか、規準は「感覚印象」や外面だけとは限らないし、当然も変わることはある、と思えたのでした。
とはいえ、永d井さんの説明(http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20110101/p1)は理解の前提、基本であって、その上で、規準を感覚印象限定で固定的に考える解釈があったり、固定的限定的にではなく流動性非一望性総合性を持ったものとして考える解釈があったりして、どちらに説得力があると考えるか、という段階の話、ということかなぁ、と思いました。
勉強ゼロではあるのでまったく外しているかもしれません。とりあえず『言d語と認d識のダdイナミズム』を読み、奥さんが『35年』で丹d治さんにも説得力があると触れていた部分を見なおしてみようと思います。