日記

ウを読んでいると、いつも、この議論が何のために行われているかわからない、と感じてしまいます。
確かに個々の議論の意味は、入門書等を読んで得た知識により理解はできる、ような気にはなりますが、議論の意味がわかるだけで、なぜこの議論が必要なのか、なぜこの問題を考えなければならないのか、がよくわからりません。
たとえばデカルdトやカdント、またはスdピノザ、またはドdゥルーズですらも、ほとんど読んだことはないですし、私に理解できているのかどうかもかなり怪しいですが、少ないながらも読んだ範囲内では、読んでいて意味がわからないと思うことはあっても、なぜこの議論が必要なのか、まったくわからない、と思うことはありませんでした。読む前から、単なる知識、情報の問題として、大体こういうことについて書かれているんだろうな、だから結論は大体こういう感じなんだろうな、という先入観があまり外れない、からだと思います。こう思っていることこそがまったく理解できていないことの証拠、なのかもしれませんが、主観的には、こう思うことができてしまっています。ドdゥルーズについては先入観や予備知識を持つことが難しいし、読んでも理解できたと感じることはあまりないですが、それでも、雰囲気で読むことを許してしまうような、雰囲気で読んでいても何か読んだ気にさせてしまうような、そういう気にさせられてしまうものがあるように思います。
ところがウは、入門書を読んでいても、なぜこの議論が必要なのか、なぜこんなことを考えなければならないのか、がよくわからない、ということが、頻繁に起こります。要素命題は独立しており他に依存しない、ということはどの入門書にも書かれていますが、なぜそうなのかは書かれていませんし、なぜそう考える必要があるのかも書かれていないし、理解もできません。言語は事態の像である、という像の理論は、平凡な当たり前のことのようにしか思えない(パリの法廷で交通事故の説明が模型を使って行われたことに着想を得た、ということを含めて)のに、なぜ画期的なのか、それもよくわかりませんし、当然それを改めてとりあげどうこう考えることもよくわかりません。
だから、ウを読むと、議論の流れ、この議論へと至った経緯、を知りたくなります。知りたくなるといいますか、そうでもしないと、ほとんど理解できないのではないか、実際いま全然理解できていない、と感じています。フレdーゲ、ラdッセルを読む必要もあるのではないか、という気になってきてしまいます。
私は予備知識も普通の知識も知能もかなり乏しいので、せめて2007年に出た『哲d学の歴史 第11巻』くらいは読んでおくべきではないかと思っています。つまり知識は必要というわけです。しかしこれは知識の問題なのでしょうか?理解できないことを知識の問題にしてよいのでしょうか。
(純理を読んでいていつも「図式」のところで挫折するのは、ウと同じような理由があるようにも思われます。テクニカルな箇所に入ってくると、勢いや素朴な実感で読むことが許されず、頭脳や整理された思考が必要になってくるから、私には手におえなくなってくる、ということかもしれません。)
たまたま「文法」「探究」で気になるフレーズ(要するにお気に入りのフレーズ)を発見した(させられた)とはいえ、結局、私はこの種のことに考えるのに適さない、ということなのかもしれない、とは思います。
以上のことから考えても『ウの言論世』は非常に役立つ本であるはずです。少なくとも上のような疑問に対する正面からの解答を提示しようとしてくれる私にとっていまのところ唯一の本だからです。しかし絶望的に理解できない、ほとんど意味がわからない、という現状です。

あと、最近よく思うのですが、入門書というのは何のために存在しているのでしょうか。ウの入門書を少ないながらも、理解できないながらも何冊か読んだ気になった結果思うのは、この入門書を読んで、何か得るものがあるのだろうか、何もない、本当にまったく何もないのではないか、ということです。入門書はまさに知識・手っ取り早く情報を得るための本で、新聞のようなものではないか、と思えます。それは当たり前というか、世の中には新聞以外の書物は存在しない、と考えることすらできそうですが、入門書を読んでいい本だとかよくない本だとか語ることに意義があるのか、あるのかないのかというとあるに決まっているとは思いますが、入門書というのは罪作りな本なのではないか、入門書を読んで理解できたと思わせるのはちょっと酷いのではないか、英語を勉強するときまず単語を覚えるとかSVOCの文型を習うとかから入る、それが入門だ、という意味での入門ということかもしれないとは思いますが、なんというか……。