自分の記憶と能力・性向(BBTの劣化コピー)

ある人物Aさんの記憶を消し、AさんにBさんの記憶を注入したとする。Aさんは、自分をBだと思い、自分の身体が突然がAの身体になっていることに驚くだろう。記憶操作の事実を知らないAさん以外の人間は、Aさんのことを、気がおかしくなって自分をBだと思うようになったAさん、と判断するかもしれないが、Aさんにとって、自分は紛れもなくBである。Aさんは自分に対する記憶操作の事実を知らされても、自分の最も古い記憶からいまの記憶に至るまでBの記憶なのだから、自分はBであるとしか思えず、その自分の記憶を信用できないとなると、自分が自分であるということについての最も重要な基準がゆらいでしまう。自分の記憶は後で他人の記憶を注入されたのかもしれない、だから自分は自分が考えている自分ではないかもしれない、などと考える可能性ができてしまうと、自分がAであるかBであるかということ以前に、自分(が誰であるか)という概念自体が危うくなる。

たとえばAさんが温厚な性格で、Bさんが短気な性格だとする。Bの記憶を注入されたAさんは、自分をBだと思う。性格は多少記憶に依存するかもしれないが、完全に依存するわけではなく、独立した部分もあるとすると、Aさんは、自分はずっと怒りっぽかったのに最近自分は丸くなったな、と思う、ことになる。

また、Aさんがプロ野球選手4番打者で、Bさんが棋士だった場合を考えてみる。Bの記憶を注入されたAさんは、自分をBだと思う。将棋の能力は記憶に依存する部分があるとしても、完全に依存するわけではなく、独立した部分もあるとすると、Aさんは急に自分がまったく将棋で勝てなくなったことを不思議に思う、ことになる。

上の2件のようなことが起きると、Bさんの記憶を注入されたAさんは、自分を完全にBだと考えているものの、次第に、自分がAかもしれない、と思うようになるか、というと、ならない。もしくは、その疑いは不十分な疑いとなる。

なぜなら、自分は自分のことをBだと考えているがもしかすると自分はBの記憶を注入されたAかもしれない、といった、記憶への疑いは、自分が自分であることに対する破壊的な疑いとなるからだ。短気だった自分が次第に温厚になってきたり、将棋が強かった自分が将棋で勝てなくなってくる、という事実をもとに、自分はもしかしたら他人の記憶を注入されたのであり元は温厚だった/野球選手だったのかもしれない、と疑うとするなら、そもそも、短気だった自分が次第に丸くなってきたり将棋が強かった自分が将棋で勝てなくなってくるという記憶も信用できない。