日記

死にたい……(死にません)。
まず、死にたい(死にたくはない)、という正直な気持ちを、書かないわけにはいかなかった。


よく言われることですが、死にたいと言う人は死にたいのではなくて、幸せに生きたい、のでしょうか。幸せになりないなどと言うと幸せは逃げてゆくよ、今はもう幸せなんだよ、とお思いになる方は、幸せなのだからそれでよいと思います。問題は、死にたい(死にたくはないですが)という気持ちの問題なのであり、死にたいのではなく幸せに生きたい、という気持ちなのです。なぜ幸せに生きたいのか? 幸せに生きたいと思うのか? 幸せではないと考えるからです。幸せではないと思うから幸せになりたい、と思うのです。幸せではないと思っている(だから幸せになりたいと言う)人に対し、幸せになりたいなどと言うと幸せは逃げてゆくよと言っても逃げるも何も今は幸せではない、ということになるのではないでしょうか。幸せではないだから幸せになりたいという気持ち、そのことに対して、幸せになりないなどと言うと幸せは逃げてゆくよ、今はもう幸せなんだよ、そう思うことが大事なんだよ、とお思いになる方は、幸せなのだから、幸せになりないなどと言うと幸せは逃げてゆくよ今はもう幸せなんだよそう思うことが大事なんだよ、と思うことによって幸せが実現できるのだからそれでよいと思います。そう思う方は幸せになりたいと思わなくてもよいのだから思わなければよいと思います。私も「幸せになりたい」などと言わないようにしようと思います。その場合幸せとは何か? 他人と話すこともできず外に出ることもできず他人といるといつも居心地が悪くひとりになるとさみしく月末には残金におびえ暇ができれば過去の過ちに頭を抱えてうめきそれらすべてが自分の自由意志の下にある行動の結果として100%自分の責任であり他人や状況のせいにできないということを痛感させられるが飢えや戦争など常に生命の危機に瀕している地域にいる人のことを思えば日本にいて職を持っているだけで幸せだ、というのは幸せでしょうか。そのような幸せな状況(生命・衣食住の心配がとりあえずない)にいる自分の立場を忘れてこのうえさらに良い状況(精神の平安)を求めるなんていま自分がいかに恵まれているか知らないだけでありこんなことではいくら幸せな状況になってもその幸せに感謝せず小さな不満だけに気を取られそれを巨大に膨らませて常にイライラして自ら不幸になっているだけでしょうか。その通りだと思います。死にたい、と言うとき、死にたいわけではなく幸せになりたいのであり、幸せになりたいなどと言う人は幸せではない、のです。という考え方は正しいでしょうか、という問題を、今回は考えようと思います。考えるという名の暇つぶしです(暇つぶしではありません。暇はないからです)が。


死にたい、ということと、幸せになりたい、ということはイコールではありません。だから、死にたいと言う人は死にたいのではなくて幸せになりたいのだ、という意見は、そのままで受け入れられる意見ではありません。もちろん幸せであれば死にたくはならないでしょう。死んだらすべてが終わってしまうので終わらせたくはないがこのまま生きていても苦しいだけだからすべてが終わるとしても死んだほうがましなのであり生きていても苦しまずに済むのならもちろん死にたくはないし幸せになれるならなりたい、のかもしれません。幸せになりたくない人というのは幸せの定義上ありえないことなのかもしれません。どんなことにせよ、人がなりたい状況のことを幸せと呼ぶのだから、人はみな幸せになりたい、というわけです。それはその通りかもしれませんが、幸せだけど、死にたい、という人もいるのではないでしょうか。いないかもしれませんが、想定は可能ではないでしょうか。


全然関係のない話のように思えますが、ここでもうひとつの問題を持ってきます。自分が死んだ後のことを想定できるか、という問題です。たとえば、外出中事故に遭うなどして突然死んでしまったとき(これはは、明日にでも、もしくは今日にでも、実際に自分の身に起こる可能性があるわけですが)、部屋に恥ずかしいものがあったら、自分が恥ずかしいものを持っていたということが他人にばれて恥ずかしいので、普段から部屋には恥ずかしいものを置かないようにする、という問題です。1.恥ずかしいので気をつける。2.恥ずかしいと感じる自分は死んだらもう存在しないので死んだ後どうなろうと別になんとも思わない。さて、1と2のどちらに切実さ、リアリティを感じるでしょうか。そしてそのことが、自分の普段の行動に、どう反映している(反映していない)でしょうか。興味深いこと言ったやろ?ではありません。まさにいま目の前にあるこの自分の部屋をどうしようかという問題です。


ここ数年でもっともネガティブな日記を書いたわけですが、この日記がネガティブである理由はふたつあります。感情を隠そうともせず出してしまったこと、もうひとつは、私は自分についての問題から極力「意見」や「主張」を書かないで済まそうと少なくとも自分なりの努力をしているつもりなのですが、その自分についての問題をさらに悪化させる意味でネガティブなのです。ではなぜそんな日記を書いたのか。もう二度と書かないためです。安心してください。私は決して幸福にはなれません。幸福にはなれないということが何か悲劇的な自分に安住できる効果を生むわけではありません。決して安住できない苦しみが毎日続きます(現在続いている)。