「敬え!」と言いたくなる気持ちもわかりますが「敬え!」と言われたらもう敬えませんよね……。

確かに人間は有限な存在である。そして世界には人間の力を超えたものも多く存在する。多く存在するどころか、その方が無限に多く広がっている。しかしそれを認識するのは宗教の問題とは限らない。たとえば自然は人間の力を超えた存在だ、ということを認識するのは宗教の問題ではない。ところがそれが宗教の問題とされると、話の焦点が異なってくる。自然と人間の関わりの、個々の人間がいかに自然に接するかという以上に、人間社会全体の力と自然の関わりである。特に、自然を人間の力を超えたものとして認識する場合は、この水準で認識しておく必要がある。大資本が自然を破壊するのを放置しておいて、大資本からボーナスをもらってカナダの大森林でも見物に行き、人間を超えた自然の豊かさに感動してみたところで、自然は人間の力を超えているということを真に認識したことにはならない。ところが、それが宗教的感性の方にひきもどされると、どうしても話が個人の実存的感覚という点に収束してしまう。とすると、いつのまにか、「人間の力を超えたもの」が「個人の力を超えたもの」にすりかえられてしまう。「人間」はちっぽけな有限な存在なのだから・・・、という説教が、だからおのれの分をわきまえておとなしく従順に、という説教になり、何のことはない、体制秩序を個々人の力を超えた絶対性とみなして、それへの従順を説く、ということになってしまう。国家権力が、個々の宗教の独自の存在の仕方はどうでもよくても、それらの宗教が説く人間を超えた力に対する帰依の感情のみを抽象してきて、珍重しようとする理由はそこにある。(田川建三「国民は宗教を信ぜよ!−文部省版<信教の自由>の実態―」『指』344号、「指」発行委員会、 1980年5月)


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