ネガティブエントリーの理由

たとえば、「コーラを一日5リットル飲むと健康になり、幸運になる」と書かれているブログがあったとします。そのブログに対して少なくない人が「これはいいブログ」とか「非常にためになる。深い」とかいうコメントをつけてブックマークしているとします。
そういうときには、このブログに書かれていることには賛成できない、ということを、書きたくはならないでしょうか。まさに自分が、このブログは間違っている、ということを言うべきだ、と思わないでしょうか。そう思わなくても、二度とこのブログを見ることはないなぁ、と思うのではないでしょうか。これが、ネガティブエントリーが書かれる理由ではないかと思います。だから、「ブログにまでネガティブなことを書くなんて……」だとか「ネガティブなだけで駄目」だとかいう批判は、全く批判になっていないのではないか、と思います。
という上のような意見は間違っている、間違ってはいないとしても少なくともおかしな部分がある、と考えられるのではないかと思います。どう間違っているかというと、まさにたとえが間違っている、たとえに足をすくわれている、わけです。「コーラを一日5リットル飲むと健康になり、幸運になる」ようなことが書かれているブログを、少なくない人が、高く評価する、はずがありません。少なくはない人に高い評価を受けているブログは、「コーラを一日5リットル飲むと健康になり、幸運になる」ようなことは書かれず、少なくはない人に高い評価を受けるようなことが書かれるわけです。少なくはない人に高い評価を受けてしまうことに十分な理由があり、かつ、少なくはない人に高い評価を受けている、からこそ問題なのであり、しかも、少なくはない人に高い評価を受けてしまうことに十分な理由があるようなブログを問題だと判断するのがまさに自分である、というところに問題があるのではないか、ということです。*1
ネガティブエントリーがただネガティブなだけで批判されることの一部は、ここにかかわると思われます。だからといって、ネガティブであるということだけを理由に批判することは、ネガティブなことを書かざるを得ない状況を否定することであり、全面的に賛成できるわけではない、と思われます。
怒りの自己肯定について

*1:優れていると昔から評価されている教訓や説得に用いられるたとえ話のなかには、この種の、方向付けられたわかりやすさを外れるととたんに無効になり、そのわかりやすさとわかりやすくたとえた本人の狙いが露呈するようなものが少なくない、という印象があります。微妙な状況や新奇の感覚を何とか伝えるために既知のわかりやすい状況で説明するというたとえは、いま問題にしている説得のたとえとは異なります。説得のためのたとえではなく伝えにくい状況を伝えるためのたとえの場合は、すべてがたとえだ、という考え方が正当である理由は十分にあります。