どういうふうに考えるか

どういうふうに考えるか、などということは、目標として掲げるものでもなければ、特定のときに基準として掲げるものではなく、その場その場で考えるべきものなのかもしれませんが、のちの自分から批判されることを想像しながらでもメモしておくと、やはり、原理的、ということが大事なのではないかと思います。
ああいえばこういう、ああも考えられればこうも考えられる、世の中のほとんどすべては、この種のことです。もちろんその場その場での最適というのはあるだろうし、その極限として、すべてが必然というスPノザ的自然観があるのだとは思いますが、考えるからには、偶然的な話ではなく、原理的にこうでなければならない、こうであると考えざるを得ない、という考えで、いきたいわけです。だからこそ、一見偶然的な範囲の話だと思えるものに必然性確実性を見出した、ムーア命題や世界像命題のインパクトがあるのではないかと思います。

そこを、実践性の重視により降り積もる時間としての歴史性を見出した、という流れで、自分の名前を間違えることのあり得なさ、自分の名前ではない名前で呼ばれることの居心地の悪さ、などを論じるのは、どこか踏み違えているような気がします。自分の名前に対する親しみなんてまさに、「内省による実感」、そうかもしれないしそうでないかもしれない、その程度のことに思えます。自分の名前がある日突然違う名前で呼ばれる慣れなさなんてのは、自分の双子の妹の名前がある日突然違う名前で呼ばれる場合だとか、「明日」という言葉が突然「ピョン」という言葉になったり「心(こころ)」という言葉が突然「すずきあいりがたへっどほん」という言葉になったりする慣れなさとそれほど違わないのではないかと思います。だいたい私は実感から言ってハンドルとして使用している単語を人が言うときのほうが本名を発音されるよりドキッとしますし、本名にはいつもどこかよそよそしい感じを持っています。他人の名前が書かれた封筒を見ると「○○という名前が書かれている」と思うが自分の名前が宛名に書かれた封筒を見ると「何の手紙だろう」と思う、とのことですが、自分の名前が宛名に書かれた封筒を見て「何の手紙だろう」と思うか「○○という名前が書かれている」と思うかは、人それぞれ、としか言えないのではないでしょうか。ここにある種の鋭さがあることは感じますが、それは心理学や小説的な話のように思えます。これは自分の痛みと他人の痛みの非対称性とは全くレベルの違う問題であり、ムーア命題の意義を骨抜きにした延長のような気がします。
などと言葉を重ねれば重ねるほど、否定しきれないので覆い隠したい、ものがあるような気になってくるので、何かあるのだとは思いますが、基本的にはこれはやはり「2次的」な話だと思えます。論理や文法について詳細に論じることが、論理や文法の起伏を平坦にしているだけのような、こういう位置の比喩が悪い意味でのわかりやすさ(単純化)なのでしょうけど、そういう気がします。全体的に気の話なので、すみません。頭が悪くてついていけていないだけのような気がしますが、もっとクッキリした議論はないかなあと思います。クッキリって、それは単純な議論ということになってしまうのだろうか……。そんな気がしていやになりますが……。