「ゲームが異なる」とは言えない?

多くの論文を読んでいるわけでもないですし、ひとつの論文をちゃんと読めているわけでもない、のだから、ある本に対して違和感を感じることは、単に視野が狭かったり自分の狭い好みに合わないことがわかるだけ、だとは思いますが一応メモしておきます。(素人が量子力学について異議を唱えるような振る舞い。まあそんなことを言い出すとこの日記全体がそうなのですが……。日記というか、私の人生全体が……。だから私は自分の生き方にまったく自信がないし、毎日不安でしょうがないです。不安でしょうがないと言えばおもしろいし、いやされる(ヒーリング)、という話ではなくて、困っているので何とかしたいという話です。)
「2+2=4」を疑うことは理解不可能ですが、「ここに自分の手がある」ことを疑うことは全然理解可能です。いくらでも疑える。だいたい、疑う、ということはそういうことではないか。疑うことは可能だけれど事実疑わない、ということが問題のポイントではないかと思います。だとすれば「2+2=4」の場合はどうか。
「2+2」はもしかしたら「3」かもしれない、と考えることが可能だろうか。考えることが可能かどうかとなると、可能だとしか言えない。しかし「「2+2=4」を疑うことは理解不可能」と言うことには、十分意義があると思える。ならば「「ここに自分の手がある」ことを疑うことは理解不可能」も意義があるということになるか。となると、やはり何らかの意義はあるにしても、手の場合は疑うことができる、と考えざるを得ない。「ここに自分の手がある」ことを、論理的判断と同じ種類のものと考えることはできないし、むしろ、論理的判断と同じ種類のものと考えることはできない、ということをどこまでも残したまま、しかし「確実」なものである、と考えなければならないのではないか。論理を何らかの経験的判断と同一視したり。経験的判断(偶然的判断)を論理と連続的に見たりするように考えてしまうと、「「2+2」も場合によっては「3」」ということに意義があると考えてしまうような混乱に陥ってしまうのではないか。「「2+2」も場合によっては「3」」というのも考えられる、と言う場合、どろだんごを数えているときだとか、3より大きい数が数えられない(数えない)種族だとか、物が急に消えたり出てきたりする世界だとか、書いた文字がすぐに変形し始める世界だとか、人間の記憶が一秒ごとに切り替わる世界だとか、そういうことが考えられていると思うのですが、そういう世界でも、「2+2=4」という論理が厳然とあるうえで、「2と2を足しても、結果を見てみると、3になることもある」ということを考えているだけなのではないか、と思います。この論理としての「2+2=4」を考えると、まさに「2+2=4」以外は考えられない、「2+2=3」であることは理解不可能、となると思います。このことと、「ここに自分の手がある」ことは明らかに異質でしょう。

「君は二本の手を持っているのか」と私に尋ねたとしたら、私はそのことを確かめるために[自分の手を]見返したりしないであろう。もしそのことに疑いを持つようならば、私はなぜ自分の目を信用すべきなのかも分からないであろう。なぜ私は自分の目をテストするために、自分が二本の手を見ているのかどうかが分かるということを使ってはいけないのか「何が何によってテストされるのか」


『確実性の問題』125(『ウィトゲンシュタイン 最後の思考』P146より)

さらに

「われわれの誤りは、事実を<根源的現象>と見るべきところで、つまりこのような言語ゲームが行われていると言うべきところで、説明を捜し求めることである」(『探究』六五四節)。


ここでウィトゲンシュタインは、根拠の要求はつねにその提示によって答えられねばならない、という考えそのものを拒否している。


ウィトゲンシュタイン入門』P155

これらの原事実は、われわれが正当化の末に到着すべき終着点ではなく、われわれが「正当化」と呼ぶものがそこから始められるべき出発点に他ならない


ウィトゲンシュタイン 最後の思考』P161

ウィトゲンシュタイン 最後の思考』は、蝶番やシーソー(蝶番の相互依存関係)という比喩、ゲームの違いという概念、を用いて、語れないことについて語りすぎてしまっているように感じます。語ってしまうと当然疑いの対象となってしまうので、語ることが可能になります。「言語ゲーム」がもはや語れない規則((順序が逆になりますが)「世界像」)の上でなされている、とも言えない、という断念を込められて作られた概念である(永井)というところが重要なのではないか思いますし、それについても書かれているようにも思いますが(ぼんやりした頭で読んでいるのでまだ理解できない箇所が多い)、どうも、語りすぎ、語れない内容について大いに語って細かい整理をしすぎなのではないか、でも、ウィトゲンシュタイン自身もそれをしているのだし、ここについてこそ大いに細かく語って精密な議論をすべき、だとも思いますが、どうもこの部分は、精密な議論をして、何かを作る、何かを明らかにする、ということが、根本的に合わない、ような気がします。実績のある世界の大天才さんたちの意見を無視してこういうことを臆面もなくインターネットに書けてしまうことは本当に問題なのではないか?