「現実への適用」の2側面、前期の「写像」「検証」と後期の「実践」(1)

ウィトゲンシュタイン入門』より

  • 前期から中期へ
    1. 要素命題の相互独立性→「文法」による命題間の内的関係(黄色であれば青色ではない)
      1. (前期)要素命題の真偽は、事実と比較されることにより決定する(「真理関数」の理論)(「外的」な関連)
      2. (中期)要素命題は文法により内的に関連している。
    2. 写像」理論(命題が現実を写像する)→具体的展開として「検証」理論(命題の意味とは検証方法のこと)
      1. 検証方法が確定しなければ命題の意味も決まらない(無意味である)。
        • 命題の意味が決まらなければ命題の真偽を調べることもできない。
      2. 検証方法が異なれば意味も異なる。
        • 同一の命題に複数の検証方法があるときがあるのではないか?
            • 「隣の部屋に兄がいる」←「ピアノを弾く音が聞こえる」「足音が聞こえる」
          • それは「徴候」の検証であって「現象」の検証ではない。
          • 「徴候」命題と検証は外的な関係。「現象」命題と検証は文法規則によって規定された内的な関係
    3. 検証方法は文法が決める。
    4. 志向性の問題

この時期の彼は、相互に独立な命題が実在と直接に比較されるという考えを放棄したにもかかわらず、目盛りのついた物差しが物の長さを測るように、体系をなす命題が実在に対して適用される、という考えを捨てていない。文法とその適用とは分裂したままであり(ここは「連続したままであり」なのではないか? 引用者注)、その狭間に深淵が横たわっていることに、彼はまだ気づいていない。また、適用のされ方こそが意味を構成すると考える点で、彼の立場はなお検証主義的であり、その限りで写像理論の枠内にある。後期的な「言語ゲーム」の立場へ到達するために飛び越えるべきハードルはまだ多いが、最初のスプリング・ボードは、おそらく「志向性」の問題にあった。


ウィトゲンシュタイン入門』P112(太字は引用者による)

命題の検証という営みが成り立つためにさえ、まずは、その像(命題)が真であることが、つまり事実と一致することが意図されていなければならない。そして、そのように事実との一致が意図された像が、検証されたり反証されたりするわけである。しかし、いったんこの対比が問題になるや、なおも像が、ただもっぱら実在と比較照合され、その真偽が確かめられるだけである必要はないはずである


ウィトゲンシュタイン入門』P113(太字は引用者による)


「実践」「言語ゲーム」概念の意義

「われわれの誤りは、事実を<根源的現象>と見るべきところで、つまりこのような言語ゲームが行われていると言うべきところで、説明を捜し求めることである」(『探究』六五四節)。
ここでウィトゲンシュタインは、根拠の要求はつねにその提示によって答えられねばならない、という考えそのものを拒否している。


ウィトゲンシュタイン入門』P155