語ることを可能にする条件について語る

語ることを可能にしている条件がある。これらの条件が成立(存在)しているからこそ、語ることができる。この場合、語りの中で、この条件について語るとは、どういうことか。ウィトゲンシュタインはこの条件を、語りえないと言った、のだと『ウィトゲンシュタイン入門』に書いてありました。
これはたとえば、世界一周旅行中の豪華客船内のロビーで金持ちになる方法について話すこと、と同じだろうか。世界一周旅行中の豪華客船内のロビーで金持ちになる方法について話すことは、多くの場合意味がない、というより、そんなことはされない。なぜなら、金持ちだから豪華客船に乗って世界一周旅行ができるのだから、あえて金持ちになる方法について語る必要(文脈)がないからだ(幸福の人と不幸な人は住む世界が違う、という『論考』における倫理の限界性についての言葉は、この方向からも理解することができる?)。しかし、世界一周旅行中の豪華客船内で金持ちになる方法について話すことは、不可能でも無意味でもない。船員は金持ちでないから話す意味はあるし、金持ちの客だとしても、自分が金持ちになった方法や、別の金儲け法について話したり考えたりする意味はあるだろう。このような、話すことが不可能でも無意味でもない場合を極限まで取り除ける場合、もしくは、話すことが不可能でも無意味でもない場合がほとんど考えられない場合、というのが、写像形式であり、論理形式であり、文法形式であり、生活形式(言語ゲーム)であり、世界像、ということになるのだろうか、というと、写像、論理、文法については明確に違うように思えるし、言語ゲーム、世界像についても、そういうレベルの話ではない、と思える。


論理が語りえないことについて鬼界さんがあっさり否定したように、金持ちであっても金儲けについて語ることができるように、論理や写像について、言語で語ることはできるように思える。『論考』や『探究』はまさにそれを行っているし、読む人に伝わっている。これはどういうことか。


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