永井さんの「<私>」について

理解が後退したような気がするのでメモ。

私が鈴木ではなく中島になったということは想定可能だが、鈴木が中島になったことは想定不可能である、という意味のことが『<魂>に対する態度』に書かれており、私はいままでずっと、なるほどな、と思っていたのですが、昨日急に、いや、想像できるのではないか? と思えてしまいました。これは例の「既に開闢後の世界の中での一般的な私について……」になってしまったときのことを考えているだけでしょうか。

私が鈴木ではなく中島になったということの想像と同じように、鈴木が中島になったという想像を、「魂」を仮に点(大きさ(性質)を持たない抽象概念)のようなものとして考えれば、可能なような気になりました。魂を点で考えるということが既に一般的な話になっているのかもしれませんが、既に一般的、ということについても考えるべき余地はあります。

鈴木が中島になったという想定を、無意味だとみなす根拠は、<私>の開闢性以外にないような気がします。<私>と開闢性は切り離せませんが、<私>と開闢性を仮に切り離すと、鈴木が中島になったという想定自体は、無意味だとも不可能だとも思えません。このあたりから考え直します。

2

とりあえず『<魂>に対する態度』を読み終わったのですが、「<私>」にとって最も重要なのは開闢性であって、開闢性こそがすべて、と読めたので、私が掛布雅之(という名前を持っていたり、掛布雅之の身体を持っていたり、掛布雅之の身体との物理的連続性を持っていたり、掛布雅之の精神的特徴を持っていたり、掛布雅之の記憶を持っていたりする)ではなく、ランディ・バース(という名前を持っていたり、ランディ・バースの身体を持っていたり、ランディ・バースの身体との物理的連続性を持っていたり、ランディ・バースの精神的特徴を持っていたり、ランディ・バースの記憶を持っていたりする)という想定が可能であることや、(私ではない他人の)掛布雅之ランディ・バースになることの想定不可能性(この人は掛布ではなくランディ・バースである、ということ以外言いようがない)については、説明のための一例でしかないということで、このことに細かな疑問があっても考えるのはとりあえずやめて、『ウィトゲンシュタイン入門』の再読を進めることにします。そこで特に何もなければ、次はいよいよ『哲学的探求』にいきたいです。日本語で書かれた本ぐらいはやくよんどかないと……と日記に書いてからもう4年くらい経ちました。