「「りんご」はりんご(そのもの)を意味する」

「「りんご」はりんご(そのもの)を意味する」という文章において、「「りんご」」の意味するもの、と言われている「りんご(そのもの)」は、「りんご(そのもの)」を意味しえていない。「りんご(そのもの)」と表現した時点で「「りんご」」と同じものになってしまうからだ。
「「りんご」はりんご(そのもの)を意味する」という文章は、「「りんご」は「りんご」の意味するものを意味する」という意味以上ではない、ということになる。「「りんご」の意味するもの」を言語によって直接に表現することはできない。「りんご」の意味するりんごそのものは、言語によって表現するしかないからだ、とも言えない。「「りんご」の意味するりんごそのもの」における「りんごそのもの」は、りんごそのものではなく、既に言葉だからだ。「りんごそのもの」とは「りんご」という言葉ではなく、言葉の指すものを意味しているのだが、それを言葉で言うことはできない。しかしこの文章の意味することは伝わっている。それは何故だろうか。「伝わる」とはどういうことだろうか。伝わっている、理解できているような気になっているだけで、理解できていないのだろうか。言うことはできなくても、理解することはできるということだろうか。


「「りんご」はりんごそのものを意味する」という文章において、「りんごそのもの」という表現はりんごそのものを意味しえていない、ということも言えない、ということはわかる。でもそれなら、「「りんご」」の場合でも同じではないか?


「「「りんご」」は「りんご」を意味する」という文章において、「「りんご」」は「りんご」という言葉を意味しているが、「「りんご」」と表現した時点でそれはすでに「りんご」ではない、のだろうか。
この場合は「りんごそのもの」のときと同じではなく「「りんご」」は「りんご」(ということば)を言えている、のだろうか? 「りんごそのもの」と言った時点でそれはりんごそのものではなく既に言語で表現されたりんごである。だから「りんごそのもの」とは言えない。しかし「「りんご」」は違う、のだろうか?
「「「りんご」」は「りんご」そのものを意味する」と書いてみると、「「りんご」そのもの」と表現した時点で「りんご」そのものではなく「「りんご」」ということになってしまう、ということがわかりやすくなる、ように思える。
「「りんごが赤い」はりんごが赤いことを意味する」において、括弧に入っていないほうの「りんごが赤い」は、この文章の意味することを既に行ってしまっている、そのことを前提として、「「りんごが赤い」はりんごが赤いことを意味する」という表現が行われており、これは正確に事態を表現できておらず、擬似表現ということになる。
「「「りんごが赤い」」は「りんごが赤い」を意味する」も同型の問題がある。


だから問題は、りんごそのもの、という「現実」を言葉で言うことができない、ということではなく、「「りんご」はりんごそのものを意味する」という写像形式を言葉で表現することができない、ということにある。
論理の語りえなさも同型だと思われるが、写像形式の語りえなさと比べ、直接性が薄いような気がする。写像でない言葉を語るのは不可能だが、論理的でないことも語れるような気がするので。と言ってすぐに思いましかたが、写像でないような言葉もたくさんあるのでした。あいさつ、とか……。



これは、言葉で現実を表現できない、ということを意味しないし(そういう主張は無意味だろう。あるいは、空疎な主張だろう)、現実というものは存在しない、ということとも関係が無い。だから関係ないのですが、このことと「独我論は貫徹されると純粋な実在論に帰着する」や「「でもとにかく他人にはこの痛みはない!」と言って胸を叩く」などの関係について『入門』に書いてあったような気がするのでまた『入門』読みなおします。理解力の無い人限定かもしれませんが『入門』の再読したい度は凄いと思います。いきなり読んでもなんとなくおもしろく読めて、何度読んでも理解したいのに理解できないところが残る感。
『こう考えた』を今日読み終わりましたが、私が初学者のためか、『入門』のような中毒性はあまりないような気がしてきました。まだ理解できない部分も多いのでわかりませんが。最近少し『<魂>に対する態度』も再読して(眺めて)いるのですが、『子どものための哲学対話』についていけないものを感じた(〜してはいけない、とか、〜したほうがいい、とか)のと同じような思想的(と言いきることはできませんが)なことがたくさん書かれていたので、『子どものための哲学対話』だけが特別ではないのだなあと思いました。