日記


『陽気な巴里っ子』画面と画面の移り変わりが的確で(というより私にも理解できた気になれるシンプルさ。サイレントだから? 1929年だから?)納得して見ることができます。隣の家に行くときはまずドアを出て行く画面、次に隣の家との間にある通りを渡る画面(最後まで常に同じ、街路樹が風に揺れている画面)次に隣の家のドアから入ってくる画面、という念の入れよう。なるほど、映画というのはこうなってるのか、と思ってうなづく。本当はうなづきませんしそう思うのは間違いかもしれません。2人が会話するときは必ず、あらかじめカメラが正面にセットされた椅子まで行ってそこに座って撮影開始といった雰囲気で、画面に2人並んで会話する様子が映し出されることには、若干の不自由を感じさせるものの、まずひとりを写し次のもうひとりを写す、という映画でよく見られる会話の方法が、何故めんどくさくもわずらわしくも感じずに見ることができるのか不思議に思えるほど、シンプルで的確(すみません……。)な画面のつながりが見ることの楽しさと集中を生みます。医者が初めて隣の家の夫人と再会し会話するときの親しげで楽しそうな様子、大阪のオバちゃんどうしのような表情と手の動きが吉本新喜劇でも見たことがないほどの(最近は吉本新喜劇を見ていませんが)激しい動きが楽しい。車が意外と軽々と動く。
無謀な瞬間』画面がどんどん動く。これが29年ではなく49年ということか……、とは思いませんでしたが、ボートに乗っている場面では背景の風景が合成のように見えたので、ボートに乗った人物をその場でそのまま撮影することは49年でも無理なのか、と思いましたがどうなんでしょうか。合成ではないようにも見えました。(移動中の乗用車の中から外を写す画面で、合成のように見えるけど、例の背景写真を移動させてる合成なのかな、合成のように見えるだけかな、と思うことがよくありませんか、ないですか。)2人の会話は当然のように部屋の中を動き回りながら嘆いたり怒ったりする人物を、まさに自然にカメラが切り取ります。自然すぎて次に見る機会があってもちょっともうこの映画は見ないかな……などと思ってしまいましたすみません……。自分の今の素晴らしく贅沢な状況を感謝できない無自覚ぶりを反省したほうがいいと思います。反省せよ。もう一度見たいです。とは思えませんでしたすみません。ネーゲルという人が途中と最後で違う人のように見えたのですが、実際違う人だったのか、同じ人なのに違う人のように見えたのか、そのあたりいまいちよくわかりませんでした。ちょっと集中できてなかったと思います。いつもは集中しているかというと集中していませんが。ネーゲルという名前を聞くともちろん永井均訳の(……。)あの本を早く読まなければと思いました。おもしろい本だそうなので。