(サプライズ)パーティーの本質は何か?

部屋のなかに机があり、多くの食器が置かれている。机の真ん中にはケーキがあり、「誕生日おめでとう」と書かれた板が乗っている。そして、部屋の中には多くの人がいる。という状況があるとき、この状況を、パーティーが開かれている、と呼ぶ。しかし、この部屋のいる多くの人がみな戦闘用のナイフを手にし、血だらけだったとしたら、これはパーティーのように見えるが、実は違うのではないか、と思う可能性が出てくる。
パーティーではないかもしれないが、一見パーティーのように見えるこの状況は、パーティーではないのではないか、と思う場合でも、この状況を、「パーティーのように見える」と表現せざるを得ない、ということに注意する必要がある。なんだかよくわからないが、とにかくパーティーのようで(パーティーではないんだ)、と言わざるを得ない、つまり、パーティーの本質とは、部屋に料理やケーキがあり、酒があり、デコレーションがある、そういうもの、ということになるのではないだろうか。
これまで、(サプライズ)パーティーの本質は文脈や連続性にある、と考えてきました。文脈や連続性がなければ(サプライズ)パーティーではありえない、なぜなら、文脈や連続性こそが、(サプライズ)パーティーが(サプライズ)パーティーと呼ばれるための必要不可欠な条件・本質だからだ、と。しかし上のように考えると、パーティーの本質は、部屋の中に置かれた物が何か(ケーキ)、なのではないか、と考えることができそうです。では、文脈や連続性だけがあり、物がない場合のことを考えてみるとどうなるか。
山田さんは人気者で人望がある、陽気で茶目っ気(……。)のある性格をしている。もうすぐ山田さんの誕生日がくる。みんなは相談して、山田さんに知らせずに誕生日会の準備をし、誕生日当日、突然、山田さんにハッピーバースデーを歌おう、ということになった。そして誕生日当日、山田さんがトイレから出て廊下に入ると、殺気に満ちた目をした血まみれのみんなが戦闘用ナイフを手にし山田さんのほうを見ていた。
これはパーティーでしょうか? パーティーではありません。しかし、サプライズパーティーかもしれない、と言われると、そうかもしれない、とも思える。やはりサプライズパーティーには、独特の文脈依存性がある、ということだろうか。