サプライズパーティーは本当は存在するのか

何の前触れもない、過去からの連続性など何もない、にもかかわらず、これはれっきとしたサプライズパーティーである、そんなことがあるでしょうか。
連続性も文脈も無い場合、では、何がそれをサプライズパーティーだと呼ぶ根拠になるのでしょうか。たとえば、定価に5%の価格が付加されているのを見て、「これはサプライズパーティーだ」と言う人はいません。いるかもしれませんが今そのことは考えません。これは消費税であってサプライズパーティーではありません。黒い服を着た人が大勢集まって泣いており人々の真ん中には死体がある、こういうとき、これを見て、「これはサプライズパーティーだ」と言う人はいません。いるかもしれませんが今そのことは考えません。これは通夜もしくは葬式であってサプライズパーティーではありません。広い部屋に談笑しあう人が大勢いて、料理があり、ケーキがある場合、「これは消費税だ」と言う人はいません。これはパーティーです。
では、私たちは、どのようなものを見れば、それをサプライズパーティーと呼ぶのでしょうか。そしてそれは、どんな文脈や連続性が無くても、サプライズパーティーとして成立するものなのでしょうか。
それをサプライズパーティーと呼ぶ限り、文脈や連続性の必要性は必然的となるのです。文脈や連続性がなくても、本当はサプライズパーティーかもしれない、と考えることは、単にナンセンスなのです。その「本当は」に意味・意義を与えることができないのです。サプライズパーティーがまさにサプライズパーティーだと言われる条件、その本質が、文脈や連続性にあるからです。文脈や連続性のない催しを見てサプライズパーティーだと言うことは、あたかも黒い色を見て「これは黒く見えるけど白色だ」と言ったり、商品に5%の税金が付加されているのを見て「これはパーティーだ」と言う事と同じで、その主張に根拠を与えることができないのです。それでも本当は実はサプライズパーティーかもしれない、と言うことに意味を与えることができないのです。それをそもそもサプライズパーティーだとみなす理由が何も無いのです。
ところが、文脈や連続性が生じている場合、それは単なるパーティーであり、サプライズ(=連続性を外れた)パーティーではありません。


サプライズパーティーが存在しない(存在が不可能である)ことは、これで説明できた、ように思います。しかし、世の中(……。*1)では、サプライズパーティーと呼ばれる対象が多数存在しています。サプライズパーティーは存在しないのに、サプライズパーティーと呼ばれる対象は多数存在している。それはなぜでしょうか。サプライズパーティーをサプライズパーティーと成立させている不可欠の要素は、文脈や連続性ではないのでしょうか。いったい何が、あれを、サプライズパーティーと呼ばせているのでしょうか。

*1:私も世の中の一部ですが。