サプライズパーティーは存在しない

サプライズパーティーは存在しないもなにも、現に見たし参加したのだから存在するに決まっている。存在するに決まっているのに存在しないと言うなんて……とお思いになられる方もおられるとは思いますが、世の中には『時間は実在するか』(asin:4061496387)『恋愛の不可能性について』(asin:4480089586)などと言う人もおられますし、時間や恋愛に比べるとサプライズパーティーのほうが相当レアだと思いますので「サプライズパーティーは存在しない」くらい言ってもそれほど変ではない、かもしれませんがこれはあまり関係のない話でした。すみません。


事前に知らされていなかった誕生日会が急に始まった、だけではサプライズパーティー存在の証拠とはならない、それはサプライズパーティーではなくただのパーティーです。これまで周囲から激しい暴力を受けていた人がトイレから帰ってくると部屋が真っ暗で、暗闇の中からみんながハッピバースデーと歌ってくれた、電気が付くと部屋の真ん中にケーキがあった、これこそがサプライズパーティーだ、と思いそうになりますが、これもまたサプライズパーティーではなく、ただの暴力です。なぜなら、これまで周囲から激しい暴力を受けていた人がこんな目にあったら、とても喜ぶ気にはなれないだろうし、これまでにない新しい暴力が始まった、と思うしかないだろうからです。このような場面をドラマや映画の一場面として私たちが見たとしても、これまで周囲から激しい暴力を受けていた人と同じ恐怖を感じるでしょう。
でも、本当に、それはサプライズパーティーなのかもしれないではないか、激しい暴力を振るってきた周囲の人が心を入れ替えるか、暴力を振るう以外の楽しみを行使する気になるかして、本当に心からその人の誕生日を祝う気になったかもしれないではないか。もし本当に楽しませたいという思いからしたことなら、それはサプライズパーティーと考えても妥当なのではないか。
では、周囲の人が、新たな暴力として(ケーキを食べようとする人の頭をつかみケーキに顔を押し付けて皆で笑うといった暴力*1)「サプライズパーティー」を催したのではなく、本当に心から楽しませようとしてやったことだということを証拠付けるものは何でしょうか。祝われる人(こういう映画を見ている観客としての私たち)が、心から楽しみ、皆の気持ちに感謝する気持ちになる、感謝する気持ちにならなくても、「これはいままでと同じような暴力ではなく、まがりなりにもパーティーだ」と思うことができるためには、何が必要でしょうか。
つまり、これがパーティーである、ということを証拠付けるための、様々な諸事情、諸事実の積み重ねが、どうしても必要になってしまうのです。連続性、文脈、ということの重要性がここにあります。人間の事情に関して、サプライズは不可能です。仮に、何の連続性も文脈もなく、本当に急にサプライズパーティーが開かれたとしても、それはいままでと同じように暴力だと思われるしかないし、そうみなされないとしたら、たとえば、この人たちは、何の前触れもなく態度を変えることがいままでに何度かあった、今回もそれが起こっただけだ、という別の連続性・文脈に回収されるということでしかありません。


では、文脈も連続性もないし、誰もが、あれは(新たな)暴力だ、と判断せざるを得なくても、本当は本当にサプライズパーティーだ、ということは、ありえるでしょうか。いままではそうだったかもしれないが、今後は、もしくは、実はいままでにも、何の前触れもなく野球のボールが空中で静止することが想像可能であるように、サプライズパーティーがまさに突然、本気で開催されることも想像可能/存在しうる、のでしょうか。

*1:もちろんこれが暴力ではなく楽しい催しの一環である場合もある