サプライズパーティーは存在しない 人間の傾向性

普段周囲から激しい暴力を受けている人間が、トイレから戻ると部屋が真っ暗という状況になったとしてもそれはパーティーではない、想像上でもパーティーではない、それがパーティーかどうかは、料理の有無やお祝いの言葉を言う人の有無が決めるのではなく、祝ったり祝われたりする状況になるための過去からの連続性、つまり文脈、といったものが決めるのだから。
と考えたものの、過去からの連続性、というのは、それほど必然的なものなのだろうか。もし、人間が、暴力を受けてもその次の瞬間からニコニコできるような生き物なら、普段周囲から激しい暴力を受けている人間が、トイレから戻ると部屋が真っ暗で……、というサプライズパーティーが、想定可能になるのではないだろうか。これが想定不可能だということは、たかだか、これまでそのような現実、人間は他人をののしった次の瞬間からその同じ他人を心からほめることができる、といったような事実が確認されてこなかった、という、経験的な根拠しかないのではないだろうか。経験的な根拠しかないのなら、野球のボールと同じように、現実(経験)とは異なることを、想定できるのではないだろうか。


手に持った野球のボールから手を離すとボールは落下せず空中に静止した、というようなことは、おそらく、有史以来一度もなかった。あったかもしれないが、あったかもしれないと言うことだけに意味があるようなあったかもしれないしか言うことができない。それにもかかわらず、手に持った野球のボールから手を離すとボールは落下せず空中に静止した、ということは想像可能だし、もし目の前でそういう状況を見たら、いま現に野球のボールが空中に静止している、とみなさざるを得ない。どのような事実を観測したら、野球のボールが空中に静止している、とすることができるかは、はっきり確定している。


では、私(たち)は、何を目撃すれば、どういう状況を体験すれば、サプライズパーティーを見た、と言えるのだろうか。